こういう梅雨時の鬱陶しい時期だと、雨もいやですが、それより何より、
雨がやんでも、もあっとして、まるで黴(かび)が生えるのを待っているような気分は何とも萎えますね。おっと、こういうときにこそ「言葉」があるわけで、梅雨を楽しくしてくれる逆転の発想をどこかに提供していてくれているはずです。さて、いったい、それがどこにあるのか。
たとえば、ドナルド・キーン著「日本文学のなかへ」にこんな箇所があります。
と、雨のことを引用するまえに、れいによってその前振りから、引用してゆきましょう。
ドナルド・キーン氏の恩師に角田柳作先生がおられます。
その先生を語った箇所なのです。
以下は引用。
1941年12月7日、真珠湾攻撃の日は、ニューヨークでは日曜日だった。・・
翌日の昼・・教室に出ると、かつて講義を欠かしたことのない角田先生が、いつまで待っても教室に姿を見せなかった。敵性外国人として抑留されたと後にわかったが、そのときの無人の教壇が、戦争についての私の最初の実感であった。
いざ日本と戦うことにはなったが、日本語の読み書きのできるアメリカ人は50人くらいしかいないと聞いた。私も、あるいは50人の中に数えられているのかもしれない。折りから海軍の語学校が日本語の基礎知識のある若者を求めていると聞いたので、経歴を書いて送った。
こうして海軍語学校に入ったドナルド・キーン氏であります。
語学校は、そのころ、ちょっと奇妙な世界の中に埋没していた。私たちの周囲の社会は戦争一色だが、語学校だけは不思議なほど戦争に無縁で、ひたすら日本語を覚えることに没頭できた。日本語を私たちが覚えることと戦争遂行の間にはどんな関係があるかは、全然と言っていいほど念頭に上らなかった。全米に軍服が氾濫していた時代だが、私たちだけは軍事訓練も受けず、ひたすら日本語の世界に沈潜していたのである。・・・入学当時は、いくら勉強しても日本語をマスターなど出来るはずがないと考えていた。それが、連日の特訓が稔って、いつのまにか簡単な会話くらいは可能になった。過って他人の足を踏んだときなど、生徒同士でも、英語より日本語が先に「あ、ごめん」と、自然に出るくらいまで上達した。・・・
毎週火曜日だったと思うが、私たちは日本映画を観た。開戦時にカリフォルニアに来ていたのを押収したものだろう、字幕はなく、時代物も現代物もあったが、俳優では田中絹代や佐分利信が記憶に残っている。最初は筋も会話もさっぱりわからず、ある映画の中で門番が道路に出てタクシーを停めるシーンがあり、そのとき叫ぶ「タクシー!」だけがわかって、満場拍手したことがあった。だが映画も、何度も同じものを観ているうちにわかり始めた。もちろん、第三者として日本語の会話を聞いているのだから、妙なところが気になった。ふつうならハイと言うところを、佐分利信はよく「ええ」と言うのに気がつき、ハイとハァとええの差を考えたりもした。日本人なら気にもとめないはずだが、私たちは日本語という未知の世界に、少しでも手がかりを求めていたのである。
さて、お待ちどうさまでした(笑)。映画を語るなかに、ようやく雨が出て来ます。
橋は劇的で、雨は長いと、相場が決まっていた。映画に橋の場面が出てくると、必ず恋人が出逢ったり別れたりする。しまいには、橋を見た瞬間に「あ、これからなにかあるぞ」と、身構えるようにさえなった。また、日本のカメラマンは長々と雨のシーンを写した。しとしとと雨が降り、水たまりが出来、さらにそこへ雨が降り込む。日本人が雨に万斛(ばんこく)の思い入れをするのが、よくわかった。日本人の観客なら、筋や人物の面白さに気をとられて、そのような細部にまでは注意が行きわたらなかったに違いない。だが私たちは、かえって、どんな細部をも見逃さなかった。・・・・・
映画の鑑賞が、日本語の勉強にどれほど役立ったかは疑わしい。しかし、日本人が映画をつくるとき、どういう点にポイントを置くか、観客がどういうことに感動するかはよくわかった。教室では呑み込めない日本人の生活感覚や芸術観を、映画でつかんだのである。
「雨に万斛の思い入れをするのが、よくわかった」というのですが、
その雨が、いまは止んでいます。
雨がやんでも、もあっとして、まるで黴(かび)が生えるのを待っているような気分は何とも萎えますね。おっと、こういうときにこそ「言葉」があるわけで、梅雨を楽しくしてくれる逆転の発想をどこかに提供していてくれているはずです。さて、いったい、それがどこにあるのか。
たとえば、ドナルド・キーン著「日本文学のなかへ」にこんな箇所があります。
と、雨のことを引用するまえに、れいによってその前振りから、引用してゆきましょう。
ドナルド・キーン氏の恩師に角田柳作先生がおられます。
その先生を語った箇所なのです。
以下は引用。
1941年12月7日、真珠湾攻撃の日は、ニューヨークでは日曜日だった。・・
翌日の昼・・教室に出ると、かつて講義を欠かしたことのない角田先生が、いつまで待っても教室に姿を見せなかった。敵性外国人として抑留されたと後にわかったが、そのときの無人の教壇が、戦争についての私の最初の実感であった。
いざ日本と戦うことにはなったが、日本語の読み書きのできるアメリカ人は50人くらいしかいないと聞いた。私も、あるいは50人の中に数えられているのかもしれない。折りから海軍の語学校が日本語の基礎知識のある若者を求めていると聞いたので、経歴を書いて送った。
こうして海軍語学校に入ったドナルド・キーン氏であります。
語学校は、そのころ、ちょっと奇妙な世界の中に埋没していた。私たちの周囲の社会は戦争一色だが、語学校だけは不思議なほど戦争に無縁で、ひたすら日本語を覚えることに没頭できた。日本語を私たちが覚えることと戦争遂行の間にはどんな関係があるかは、全然と言っていいほど念頭に上らなかった。全米に軍服が氾濫していた時代だが、私たちだけは軍事訓練も受けず、ひたすら日本語の世界に沈潜していたのである。・・・入学当時は、いくら勉強しても日本語をマスターなど出来るはずがないと考えていた。それが、連日の特訓が稔って、いつのまにか簡単な会話くらいは可能になった。過って他人の足を踏んだときなど、生徒同士でも、英語より日本語が先に「あ、ごめん」と、自然に出るくらいまで上達した。・・・
毎週火曜日だったと思うが、私たちは日本映画を観た。開戦時にカリフォルニアに来ていたのを押収したものだろう、字幕はなく、時代物も現代物もあったが、俳優では田中絹代や佐分利信が記憶に残っている。最初は筋も会話もさっぱりわからず、ある映画の中で門番が道路に出てタクシーを停めるシーンがあり、そのとき叫ぶ「タクシー!」だけがわかって、満場拍手したことがあった。だが映画も、何度も同じものを観ているうちにわかり始めた。もちろん、第三者として日本語の会話を聞いているのだから、妙なところが気になった。ふつうならハイと言うところを、佐分利信はよく「ええ」と言うのに気がつき、ハイとハァとええの差を考えたりもした。日本人なら気にもとめないはずだが、私たちは日本語という未知の世界に、少しでも手がかりを求めていたのである。
さて、お待ちどうさまでした(笑)。映画を語るなかに、ようやく雨が出て来ます。
橋は劇的で、雨は長いと、相場が決まっていた。映画に橋の場面が出てくると、必ず恋人が出逢ったり別れたりする。しまいには、橋を見た瞬間に「あ、これからなにかあるぞ」と、身構えるようにさえなった。また、日本のカメラマンは長々と雨のシーンを写した。しとしとと雨が降り、水たまりが出来、さらにそこへ雨が降り込む。日本人が雨に万斛(ばんこく)の思い入れをするのが、よくわかった。日本人の観客なら、筋や人物の面白さに気をとられて、そのような細部にまでは注意が行きわたらなかったに違いない。だが私たちは、かえって、どんな細部をも見逃さなかった。・・・・・
映画の鑑賞が、日本語の勉強にどれほど役立ったかは疑わしい。しかし、日本人が映画をつくるとき、どういう点にポイントを置くか、観客がどういうことに感動するかはよくわかった。教室では呑み込めない日本人の生活感覚や芸術観を、映画でつかんだのである。
「雨に万斛の思い入れをするのが、よくわかった」というのですが、
その雨が、いまは止んでいます。