和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

戒めの語り草として。

2017-03-09 | 地域
千葉県の大正12年の房総半島のことです。
関東大震災についての館山町役場報に

「僅かばかりの言葉の聞き違いから町八千有余人の人々を忽ちにして
不安と恐怖とに陥し入れたと云うこの挿話は、毎年九月一日の
震災記念日には、いつも老若男女の戒めの語り草として
永遠に云い伝えらるべき悲惨な珍話となっている。」

その「永遠に言い伝えられるべき話」とは何だったのか。
私ははじめて知ることだったので、
あらためて、ここに採録。


「『今来たよう!』の簡単な一言から全町を震撼させた悲惨な挿話がある。
時は大正12年9月2日の夕刻、日は西山に落ちんとして西天は夕焼に燃えて
暮色蒼然たる午後六時の事であった。
余震は頻々として来り、海嘯の噂は頻々として起り、
不逞漢襲来の叫びは頻々として伝えられ、
人心は不安と恐怖とに襲われてほとんど生きた心地もなく、
平静の気合いは求めようとして求められず
ただ想像力のみ高潮して戦々兢々としていた時であった。

町の旧家として町の有力者として亦町の古店舗の餌場屋として
土地の人達からは、・・左膳の『オシオクリ』(押送り)
山田丸が東京から帰って『今来たやう』と叫んだのを
『海嘯が来たよう』と聞き誤って伝えられた事に端を発したものであった。


山田丸は漁獲物を満載して魚河岸にひと商に出掛けたのは
震災二日ばかりの前のことであった。
山田丸乗組の人達は、ひと商を終ったので月島の河岸に船を繋いで
色々帰港の準備に忙殺せられていた折柄間一髪を入れずして
あの恐ろしい大震災に遭遇した。
阿鼻叫喚其の痛ましい状態をまざまざと目撃して来たので、
自分の家族の安否がひと入気付かはれるので数名の避難者を便乗させて
一路帰港を急いだのであった。
船は緊張しきった人々の一念に操つられたので思ったより早く
二日の夕刻夕焼の日を浴びて六時頃に無事に帰港したのである。


いつも船が帰る頃には、大勢の人達は船を迎えてくれるが通例であるのに、
その日は地震直後の事とて誰も迎えに出る人もなく、
ただ海辺は藾々として磯吹く松風の音と、ときどき海嘯の噂に
驚かされて海を見に来る人ばかりであった。

船の者は人の気配もないので無関心の裡に
『今来たやう!』と陸をめがけて叫んで見た。
日に何回ともなしに海嘯の噂に怖えている人達は、
聞くともなしに其の声が耳に入ったので
『ソレ来た』とばかりに人々の間に宣伝されたので、
忽ちの間に海嘯襲来の事実話となって
各方面に伝えられてしまったのである。
然し恐怖して聞き伝えた人は其の事実を確かめたのでもなく、
また誰がそれを云ったのか、そんな事なぞ勿論知ろう筈もない。

海嘯襲来の噂は忽ちにしてそれからそれへと伝えられた。
泣きわめく子供を背負って逃げる者、
老人の手を引いて逃げる者ら、
城山の中腹や岡沼の高地は避難者の雑踏で
一時は町全体は混沌として名状すべからざる状態に陥ってしまったのである、
役場では其の悲報が伝えられたので其の誤伝の事実を周知せしめ
人々の不安を一掃せしむべく、吏員を八方に派して極力其の誤解を
説いたので、辛うじて人心の安定を期し得たのであった。

わずかばかりの言葉の聞き違いから町八千有余人の人々を
たちまちにして不安と恐怖とに陥し入れたと云うこの挿話は、
毎年九月一日の震災記念日には、いつも老若男女の
戒めの語り草として永遠に言い伝えらるべき悲惨な珍話となっている。」

(「大正大震災の回顧と其の復興」上巻)
コメント
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