Voice4月号届く。
巻頭随筆は解剖学教室でなじみ深い養老孟司氏。
そのはじまりは、
「お葬式の形が変化してきている。
現在の状況は鵜飼秀徳『無葬社会』(日経BP)に
その詳細が記されている。多くの人はお気付きかもしれないが、
いまではいわゆるお葬式が全国的に見ても半数を切った。
東京のような都会では、葬儀をせずに火葬場に行く直葬、
さらに身内だけが集まる家族葬を含めると、
葬儀のほぼ八割を占めるという。」
つい先頃、親戚の家族葬へ行ったので、
そうかもしれないと、あらためて思うのでした。
曽野綾子氏の連載「私日記」を
さっそくひらく。
こちらの日記では、
まだ、ご主人は亡くなっておられない。
「私は子供の峙、昔風の父の元で
いつ父の機嫌が悪くなるかわかならいという
恐怖におびえながら暮らし、家族の穏やかな
時間を知らなかった。家族というものは、
心と体を癒し、失敗も包み込んでくれ、
寒ければ火を焚き、暑ければ汗を拭いてくれる
場所だと知ったのは、結婚してからであった。
だから三浦朱門は私を、まあ人並みな人間に
してくれたのである。・・・
私は病院で夜中に眼を覚ますと・・・・
血圧は信じられないほど低かった。
一度最高血圧が五十八になった時、
『ご家族をお呼びになった方が・・・』と言われて、
孫夫婦も夜十時過ぎにかけつけたが、
それでも朱門は静かに生き続けていた。
その後、血圧は四十八くらいまで下がる時もあったが、
その危機を朱門は自分で乗り越えた。
『健康な病人』という言葉を私が思いついたのは、
その時である。
入院して時に、一切の不自然な延命処置をしないことに
合意する旨の書類に私はサインしていたのだが、
それは二人の長年の暮らしの中で充分に
申しあわせのできていたものであった。
一月三十一日、私は眠り続けている病人をおいて、
浜離宮朝日ホールに、五嶋龍さんのヴァイオリン・リサイタル
を聞きに行っている。・・・」(p32~33)
巻頭随筆は解剖学教室でなじみ深い養老孟司氏。
そのはじまりは、
「お葬式の形が変化してきている。
現在の状況は鵜飼秀徳『無葬社会』(日経BP)に
その詳細が記されている。多くの人はお気付きかもしれないが、
いまではいわゆるお葬式が全国的に見ても半数を切った。
東京のような都会では、葬儀をせずに火葬場に行く直葬、
さらに身内だけが集まる家族葬を含めると、
葬儀のほぼ八割を占めるという。」
つい先頃、親戚の家族葬へ行ったので、
そうかもしれないと、あらためて思うのでした。
曽野綾子氏の連載「私日記」を
さっそくひらく。
こちらの日記では、
まだ、ご主人は亡くなっておられない。
「私は子供の峙、昔風の父の元で
いつ父の機嫌が悪くなるかわかならいという
恐怖におびえながら暮らし、家族の穏やかな
時間を知らなかった。家族というものは、
心と体を癒し、失敗も包み込んでくれ、
寒ければ火を焚き、暑ければ汗を拭いてくれる
場所だと知ったのは、結婚してからであった。
だから三浦朱門は私を、まあ人並みな人間に
してくれたのである。・・・
私は病院で夜中に眼を覚ますと・・・・
血圧は信じられないほど低かった。
一度最高血圧が五十八になった時、
『ご家族をお呼びになった方が・・・』と言われて、
孫夫婦も夜十時過ぎにかけつけたが、
それでも朱門は静かに生き続けていた。
その後、血圧は四十八くらいまで下がる時もあったが、
その危機を朱門は自分で乗り越えた。
『健康な病人』という言葉を私が思いついたのは、
その時である。
入院して時に、一切の不自然な延命処置をしないことに
合意する旨の書類に私はサインしていたのだが、
それは二人の長年の暮らしの中で充分に
申しあわせのできていたものであった。
一月三十一日、私は眠り続けている病人をおいて、
浜離宮朝日ホールに、五嶋龍さんのヴァイオリン・リサイタル
を聞きに行っている。・・・」(p32~33)