「編集者 齋藤十一」(冬花社)。
そこに、新潮社の雑誌「新潮」について触れている箇所で。
「昭和41年(1966年)九月号に、
吉村昭氏の『戦艦武蔵』420枚が一挙掲載された。
失礼ながら当時はまだ同人雑誌作家クラスと目されていた
吉村さんに対し、実に破格の大胆な起用であった。
これも齋藤さんが、或る小さな業界パンフレットに
連載されていた吉村さんの『戦艦武蔵取材日記』という
エッセイを読んで決断した企画だった。」(p57~58)
この箇所が、気になっておりました。
本棚に「戦艦武蔵ノート」を置いて、
ずっと読まずにありました(笑)。
ちょうど、私のなかで読み頃をむかえて、
このノートと文庫本「戦艦武蔵」とを読了。
そういえば、本棚に講談社「少年少女古典文学館」が
あって、これも未読なのですが、そのなかの
「平家物語」は吉村昭氏の名前があった。
ということで、取りだして、その「あとがき」をひらく。
「少年少女古典文学館の『平家物語』の現代語訳を
担当してほしい、と編集部から依頼されたとき、
私は、20数年前に書いて単行本として出版された
『戦艦武蔵』のことを思い起こした。
その単行本の帯に
獅子文六氏が、
『この小説には哀感があり、平家琵琶の音色がする。』
といった趣旨の推薦文を書いてくださった。
太平洋戦争中、戦艦『武蔵』は、
フィリピン沖でアメリカ空軍機の波状攻撃をうけて、
多くの乗員とともに沈み、獅子氏は、
その悲劇を平家一族の多くが海中に沈んだ壇ノ浦の戦と
重ね合わせて、そのような感想をもたれたのである。
『戦艦武蔵』を書いた私が『平家物語』の
現代語訳をすることに因縁めいたつながりを感じ、
編集部の依頼を引き受け、その現代語訳に取りくんだ。」
ちなみに、講談社の「少年少女古典文学館」の
監修は三人。司馬遼太郎・田辺聖子・井上ひさし。
はたして、吉村昭氏は「平家物語」だと
企画したのはどなただったのでしょう。
そこに、新潮社の雑誌「新潮」について触れている箇所で。
「昭和41年(1966年)九月号に、
吉村昭氏の『戦艦武蔵』420枚が一挙掲載された。
失礼ながら当時はまだ同人雑誌作家クラスと目されていた
吉村さんに対し、実に破格の大胆な起用であった。
これも齋藤さんが、或る小さな業界パンフレットに
連載されていた吉村さんの『戦艦武蔵取材日記』という
エッセイを読んで決断した企画だった。」(p57~58)
この箇所が、気になっておりました。
本棚に「戦艦武蔵ノート」を置いて、
ずっと読まずにありました(笑)。
ちょうど、私のなかで読み頃をむかえて、
このノートと文庫本「戦艦武蔵」とを読了。
そういえば、本棚に講談社「少年少女古典文学館」が
あって、これも未読なのですが、そのなかの
「平家物語」は吉村昭氏の名前があった。
ということで、取りだして、その「あとがき」をひらく。
「少年少女古典文学館の『平家物語』の現代語訳を
担当してほしい、と編集部から依頼されたとき、
私は、20数年前に書いて単行本として出版された
『戦艦武蔵』のことを思い起こした。
その単行本の帯に
獅子文六氏が、
『この小説には哀感があり、平家琵琶の音色がする。』
といった趣旨の推薦文を書いてくださった。
太平洋戦争中、戦艦『武蔵』は、
フィリピン沖でアメリカ空軍機の波状攻撃をうけて、
多くの乗員とともに沈み、獅子氏は、
その悲劇を平家一族の多くが海中に沈んだ壇ノ浦の戦と
重ね合わせて、そのような感想をもたれたのである。
『戦艦武蔵』を書いた私が『平家物語』の
現代語訳をすることに因縁めいたつながりを感じ、
編集部の依頼を引き受け、その現代語訳に取りくんだ。」
ちなみに、講談社の「少年少女古典文学館」の
監修は三人。司馬遼太郎・田辺聖子・井上ひさし。
はたして、吉村昭氏は「平家物語」だと
企画したのはどなただったのでしょう。