きになるので、今西錦司の紹介文を読もうとする。
桑原武夫氏の『今西錦司論序説』(1966年)をひらく。
そこから、すこし引用。
「サル学での世界の先進国、アメリカの学者が
近ごろよくやってくる。・・・・
京都のサル学者たちにぜひ会いたいと言う。
・・・カーペンター博士が来たとき・・・・
博士は今西グループの仕事を最高に評価したが、
自分たちアメリカの学者は、霊長類の研究で、
論理を通して推論することでは、率直のところ、
日本人にはけっして劣るとは思わない。しかし、
今西や伊谷の示すあの洗練された微妙な発想は、
これは驚くばかりだ。どうしてそうなのか、
日本人全体の性質か、それとも今西、伊谷などという
個人のパーソナリティの問題だろうか。
あなたはこの学者たちと親密らしいので、
ちょっと聞いてみたい気がするのだが、と言った。
私は、今西家は代々西陣の有名な織元であり、
伊谷の父は一流の洋画家だ、artということと
無関係ではないというような話をすると、
彼はひどくよろこび・・・・・」
(p200~201・「桑原武夫集7」岩波書店)
うん。ここだけ引用すると片手落ちになる
恐れがあるので、いそいで追加の引用を(笑)。
「学者としての、登山家としての、あるいは
市井人としての彼(今西)の生活のなかで、
快楽のしめる位置はきわめて高い。
『艱難汝を玉にす』とは正しいことばであって、
霊長類研究の今西グループの日本ないし
アフリカの原野における艱難は、筆紙を絶している。
しかし大切なことは、その艱難が同時によろこびであり、
それゆえに彼らの研究は生産性が高いという事実である。
つまり、今西の学問にはつねに『あそび』の要素があること、
それは勉強のあとに遊びというのではなく、勉強即快楽であり、
しかも勉強が快楽と思い定めて努力するというのではなく、
進んでしたいのでなければ勉強はしない。
その勉強には渾身の力をかけるという意味である。」
(p196~197・同上)
うん。こうして引用していると、
途中で引用を止めるのが罪悪であるように
感じるのですが、あえて罪悪をするつもりで、
引用はここまで(笑)。
この人物論に腕を振るった桑原武夫にして、
『今西錦司論序説』といって『序説』しか
書けなかった、そのスケールをただ思ってみる。
それはそうと、『西陣』。
「今西が生まれたのは1902年で、
梅棹が生まれたのは1920年である。
この職住一致の西陣の、頂点にあるのは織元たちであり、
そんな織元の一つ『錦屋』の長男だから錦司と命名された、
それが今西錦司である。・・・・
梅棹忠夫もまた京都西陣の生まれではあるが、
実家は織元ではなく、そして織り子でもない。
家業は下駄屋であった。小間物屋も営んでいた。
・・・・・・・
戦争中に下駄屋は閉業し、借家業が営まれていたところ、
梅棹の母は、夫の死後、新刊書籍店を開業した。
梅棹によれば、弟や妹たちの面倒をみる余裕が
彼にはなかったので、母が書店を経営して弟妹たちを
養ったという。・・・・」(p24~31・小長谷有紀著
「ウメサオタダオが語る、梅棹忠夫」ミネルヴァ書房)