和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

東山魁夷『年暮る』。

2019-12-05 | 京都
古本で買ってあった
東山魁夷画文集5「美の訪れ」(新潮社)をひらく。
最初の30頁ほどに絵画が載せてあり、
あとは、東山魁夷の文です。
目次の最後に「京洛四季」という文がある。
絵の連作「京洛四季」にあわせて書かれたものでしょうか。

そこから、引用することに。
「冬の北山杉」と題する文はこうはじまります。

「冬は北山から来る。洛南のほうではよく晴れた日に、
遥かに連なる北山が、群青に翳り、また明るく照り
・・・・」(P286)

はい、他も引用したいので、ここまで

「冬の寺」は、こうはじまります。

「年の暮れの近づく錦小路の混雑、南座の顔見世の提灯。
都の町中の雑踏をよそに、北山に雪が降って、厳しい寒さ
を迎えようとしている。この頃、寺院を廻るのは楽しい。
  ・・・・・・
私は少年時代を神戸で過したから、京都へは時々行った
ことがある。もっとも、その頃は、両親に連れられて行った
ことが多かったのだが。私は奇妙なことに子供の時から
旅に出ることが好きで、夏休みはいつも半分くらいは
淡路島で過ごしていた。一人で奈良へ行って仏像を見たり、
この時のように京都へ来て博物館や寺院の絵を見たことが
ある。画家になりたいと思っていた。その少し後には、
画家はやめにして、本屋になりたいと思ったのだが・・
  ・・・・・
冬の日に寺院を廻ると、静かなたたずまいの中に、
すべてのものが生き返ったように見える。」

そして最後の文は「除夜の鐘」でした。

「八坂から円山公園に出ると、知恩院の鐘が重々しく
響きをこめて、除夜の第一声を伝えてくる。
山門を入ると、その音は身内に響くように近づく。
おおぜいの人々が、鐘楼のある小高い岡へ登って行く。
私はそちらへは行かず、大方丈の階段を昇った。
・・・・・そのまま縁に腰をおろし、向いの岡の木蔭から
響いてくる鐘の音を聞いた。・・・・・・・

この寺の巨鐘は撞木に十一本の引き綱をつけ、
そのはじをめいめいの人が持ち、親綱を握る僧は
その人々に向い合った姿勢で立つ。
掛け声と共に呼吸を合わせ、手足に力を籠め、
のけぞるようにして撞くという。
私は眼を閉じてその光景を想像しながら
鐘の音を聞いている。・・・・・」(~p290)

そういえば、杉本秀太郎著「平家物語」(講談社)
というのが、本棚にあった。1996年第一刷発行とある。
新刊で私は買った覚えがある。読んだ覚えはない(笑)。
表紙カバーは安野光雅。ステキなカバーです。
その本のはじまりは、こうはじまっておりました。

「『平家』を読む。それはいつでも
物の気配に聴き入ることからはじまる。
身じろぎして、おもむろに動き出すものがある。
それにつれて耳に聞こえはじめるのは、
胸の動悸と紛らわしいほどの、ひそかな音である。
『平家』が語っている一切はとっくの昔、
遠い世におわっているのに、
何かがはじまる予感が、胸さわぎを誘うのだろうか。
    ・・・・・・・
『平家』冒頭の誰でも知っているくだりは、
これから語り出されるものをよく聴き給えということを、
ああいう喩(たと)えで語り出したのである。
天竺というおそろしく遠い国の、奥も知れない
林のなかに埋もれてしまって、たしかめようもなくなった
祇園精舎から、どこからともなく吹く世外の風に乗り、
はるばる鳴りわたってくる鐘の声。・・・・」

うん。杉本秀太郎著「平家物語」は以下未読。

そういえば、東山魁夷の「除夜の鐘」は
はじまりが
「八坂から円山公園に出ると、知恩院の鐘が重々しく
響きをこめて、除夜の第一声を伝えてくる。」
とありました。
ここに「除夜の第一声」とありオヤッと思いました。
けれども、平家物語のはじまりは
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。」
とはじまっていたので、
鐘の声の、除夜の第一声であるわけですね。
と、ひとり合点します(笑)。

ちなみに、東山魁夷の連作「京洛四季」のなかに
京都の街に立ち並ぶ瓦屋根・瓦屋根の先に
寺院の大きな屋根があって、雪がそれらの全体を
おおいはじめていく風景を描いた作品があります。
題して、「年暮る」。
うん。いけません、連想が浮かびます(笑)。

いつか、この『年暮る』の絵の前に立ち、
その気配に聴き入っていると、降り積む雪の
音にまじって、『祇園精舎の鐘の声』が・・・。












コメント
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