和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

小沼は私にとって

2025-01-14 | 重ね読み
だいぶ昔に、購入した小沼丹著「珈琲挽き」(みすず書房)が本棚にある。
はい。新刊の際に買いました。凾入り定価4120円。1994年1月発行とある。
よっぽど書評がよかったのでしょう、私ですから、つられ注文したのかと。
つまりは30年前に手元にあり、興味がわかずに本棚で埃をかぶってました。

最近、古本で小沼丹著「清水町先生 井伏鱒二氏のこと」(筑摩書房)を
古本購入200円。凾入り帯つき。中身はとてもきれいです。ひょっとして、
私みたいな横着者が買い、古本屋へと到着したのかと思ってみたりします。

庄野潤三をひらいていると、
小沼丹という名が登場する。

『明治学院の生徒のころから井伏さんに師事していた小沼丹をとり上げたい。
 小沼とは井伏さんを通して親しくなった。井伏さんのところへ最初に
 小沼が連れて行ってくれた。・・・・・

 井伏さんのお伴をするばかりでない。小沼と二人でよく飲みに行った。
 しばらく会わないと、電話をかけて、新宿西口のデパートの前あたりで
 落ち合う。デパートの地階のビアホールで海老の串焼きなんかとって
 ジョッキを傾ける。
 私の『 秋風と二人の男 』は、ジョッキを前にして
 とりとめのない話をする友人を描いた短篇だが、
 この『 二人の男 』とはすなわち小沼丹と私である。・・ 」
     ( p241 庄野潤三著「野菜讃歌」の中の「私の履歴書」から)

はい。こんな引用はどうでもいいようなことなのですが、
もうすぐ、私は庄野潤三を読むのを忘れて違う本を読み始める
( はい。すくなくとも、私の経験ではいつもそうなる )。
そうすると、すっかり、小沼丹と庄野潤三の関係が、
どのようであったのか、漠然として思い浮かばなくなる。
そういう際の道案内のつもりでここに書いております。

つづけてゆくと、岡崎武志さんの文の中にも、こんなのがある。

「・・・小沼丹がいる。庄野文学のもっともよき理解者の一人で、
 講談社文庫版『 夕べの雲 』の解説は情理兼ね備えた名文である。 
 庄野文学への入口として、私などはこれにもっとも強い影響を受けた。 」
      ( p116 「 庄野潤三の本 山の上の家 」夏葉社より )

ちなみに、講談社文庫の『夕べの雲』の小沼丹の解説は、
のちに、講談社文芸文庫の『夕べの雲』になると、はぶかれておりました。

そうそう。みすず書房の「大人の本棚」に入った一冊。
「小沼丹 小さな手袋/珈琲挽き」は、庄野潤三編となっております。
こちらの最後に庄野潤三が『なつかしい思い出』を書いております。
そこから、一ヶ所引用。

「 小沼は私にとって風雅の友であった。
  しばらくご無沙汰したので、庭の鉄線の花(青)が咲いたとか、
  侘助が咲いたとか、そういうことを葉書に書いて出す。
  こういう何でもない庭先の様子を書いて
  知らせたくなる友というのは、ほかにいなかった。 」(p261)

ちなみに、『大人の本棚』のこの小沼丹の本を目次をひらくと、
『 庄野のこと 』というのがあって、この一冊の中で読める、
庄野潤三と小沼丹の文とを交互に開けば、しばし時を忘れます。


コメント
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