和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

下手なほど

2025-01-13 | 短文紹介
夏葉社『 庄野潤三の本 山の上の家 』(2018年)
の最後の方に、『年譜のかわりに』がありました。その終りに、
『 2009年、9月21日、老衰のために自宅で永眠 』(p223)とあります。

この本の最初の方には、『 庄野潤三の随筆、五つ 』とあります。
とりあえず、五つ目の随筆『 実のあるもの 私の文章作法 』を
読んでみる事にしました。こんな箇所があります。

『 いい文章は、苦労せずに話がうまいこと運んで行って、
  なるほどと思っているうちに終りになり、あとにいい心持が残る。 』 
                              (p66)

はい。ちょうど、『ザボンの花』をちょびちょびと読んでいるのですが、
これが庄野さんなりの『 いい文章 』を目指した文章なのだと合点。
この随筆のすこし前の方に、詩人がでてきます。
『 詩人の伊東静雄に『 文章 』という短文がある 』(p65)。

はい。気になって人文書院版『伊東静雄全集』をひらくことに。
はい。全一冊本です。『文章』には、詩人の視点が語られておりました。

「 ・・・通俗の達意と流暢とを欲しがる読者に気に入る筈がない。
  又詩人は、他を顧みて物を言ふ現代の悪癖に染つてゐない点も
  あるのである。世間の人の面白がる文章といふものには、
  必ずこの悪癖が一杯してゐなければならぬ。
  又詩人には教師風の懇切鄭寧さもない。・・・  」(p242)

そうして、伊東氏のこの短文の最後には、こうありました。
『 芸術といふものは誠さへこもつてをれば、下手なほどよろしい。 』(p242)

これは、富士正晴主宰の詩誌『三人』へ、頼まれて寄せた文のようです。



なんか、この伊東氏の最後の言葉を見ていると、
庄野潤三家の3人の子供のことが、思い浮かびます。

師・伊東静雄氏が、『 下手なほどよろしい。 』という言葉を
弟子・庄野潤三は、子供たちへ、当て嵌めたのかもしれないなあ。
私といったら、そんな心持ちで『 ザボンの花 』を開いてます。
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こんな会話をして

2025-01-13 | 重ね読み
庄野潤三著「ザボンの花」の、第12章は「アフリカ」。
ここに、主人公の子供の頃の写真が2枚でてくる。
長男と長女とが気に入っている
『 父のアルバムの最初の頁に貼ってある二枚の写真 』
1枚は
『 4つか5つの頃の写真で・・大きな口をあけて泣いているところ 』
『 正三やなつめがそれを見て大よろこびするのも無理ないくらい、
  見事な泣きっ面である。その次に、
  もっと子供たちが面白がる写真がある。 』

ということで、2枚目は
『 それは、棒をもった12人の主人公がならんでいる写真だ。・・
  小学五年の時の七夕まつりで、矢牧のクラスから12人の生徒が選ばれて、
  ニュージーランドの土人の踊りをやった。
  半ずぼんの上から棕櫚(しゅろ)の葉っぱをつけ、
  上半身はむろん裸、頭にはプラタナスの葉っぱをつけている。・・  』

この場面を読むと、あれっ、と思い浮かぶ本がある。
夏葉社の『 庄野潤三の本 山の上の家 』(2018年)。
そこに載っている写真は、3人の小さな子供たちが印象深いのですが、
それにまじって、庄野潤三自身の
『 昭和7年ごろ 帝塚山学院小学部の学芸会でのニュージーランドの踊り 』
という1枚があって、小説のこの箇所は本物だったことがわかるのでした。

さてっと、このあとに、土人つながりなのか、
夫婦二人してアフリカへ船旅をする夢を語る場面があります。
最初に読んだ時、なんだか、この第12章は夢物語の章なのかと、
ちょっと、他の章との違和感を感じました。
けれども、しばらくすると、生活実感があふれた家族の生活が
連綿と綴られているなかで、この箇所が出て来ることで、
夫婦の現実と夢とが入り混じるような章となっているのに気づくのでした。
そして章の終りはというと、
『 千枝は何を考えているのか、ぼんやりしていた。
  二人で行けるはずのないアフリカ旅行について
  こんな会話をしている時、隣りの部屋では子供たちは、
  蚊帳の中で入りみだれて眠っていた。入りみだれて?
  そうだ。四郎のふとんになつめが、なつめのふとんに正三が、
  そして正三のふとんには四郎が眠っていた。
  ・・・・矢牧は次の日の昼、会社で蕎麦を食べていた時に・・・ 』

さらに、この小説に驚かされることは、
庄野潤三年譜をひらくと、わかるのでした。

昭和30年(1955)34歳 ・・・4月
     『 バングローバーの旅 』を『文芸』に発表。
     『 ザボンの花 』を「日本経済新聞」夕刊に連載(152回完結)。

その2年後の
昭和32年 36歳 ・・・ロックフェラー財団の招きにより
        米国に留学することになり、8月26日、妻千寿子と
        ともにクリーブランド号で横浜港を出帆。・・・・・
        留守宅には、妻の母が来て、3人の子供の世話をみてくれた。


いったい何だい。この小説は。と、つい口に出してしまいそうになる。

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