読むのも何なので、本棚を整理していたら、こんなのが出てきました。
金子武雄著『 日本のことわざ 評釈(一) 』(大修館書店・昭和33年)。
はい。古本で安くて、それで触手が動き買ってあって、
そのままになっておりました。いつかは読もうと買った本です。
こういう時は、とりあえずパラリとひらいてみる。
パラリとひらくのも『 他生の縁 』。ということでひらく。
『 苦しい時の神だのみ 』が目に入りました。
ああいいなあ。そう思えたので、はじめから引用。
「 大体似た意で、次のようなさまざまな言い方もある。
叶(かな)はぬ時の神だのみ
術(じゅつ)ない時の神だのみ
困った時の神だのみ
せつない時の神だのみ (北条氏直時分諺留)
悲しい時の神祈り (本朝二十四孝)
叶はぬ時の神たたき (松の落葉)
悲しい時の神たたき (金屋金五郎浮名額)
せつない時の神たたき (根無草) 」
このように、いろいろな箇所からピックアップされた言葉が並びます。
(全部のことわざが、これほど同類をならべてあるわけではなかった)
さらに次をつづけてゆきます。
「 総括すれば、苦しい時、思うようにならない時、
途方に暮れた時、困った時、せつない時、悲しい時、
こんな時に神に救いを求める、というのである。
『神たたき』は神の注意を呼び起してしきりに祈ることの意らしい。
・・・・・・
・・よほどの神の信仰者でない限り、ふつうの人は神を忘れている。
あるいは神に祈りはしない。そう思う通りにならなくとも、
どうというほどのことはないからである。
ところがせっぱ詰って途方に暮れ、せつなく、悲しく、苦しい時、
やっぱり神にとりすがろうとする。
自分の力ではどうにもならないとさとるからである。
・・・・
・・ふだんほとんど神を忘れ、あるいは思わない者が、
そんな時になって急に神だのみするのは、当人には
なんだか照れくさく、はたからみるとおかしい。
それでもやはり神にとりすがるのが人情の真実である。
そこに人間の身勝手と弱点とが見られる。
この諺はそうした事象を指摘しているのである。
Some are atheists only ㏌ fair weather.
The river past, and God forgotten.
西洋のこういう諺も、同じような事象を指摘している。
『 ある人々は日和のよい時だけ無神論者である 』、
『 川を渡り終わると神は忘れられる 』という意であろう。 」
( p146~147 )
このように、同類の英語の格言がある場合には、
それを各諺の説明の中へ入れておられます。
はい。買っておいてよかった(笑)。
ちなみに、この本は、何回か文庫にもなっているようです。
はい。本棚の整理はしてみるものですね。
そのまま宝の持ち腐れとなるところでした。
はい。ここまで来たら『 宝の持腐(もちぐさ)れ 』も
知りたくなります。こちらは
『 日本のことわざ 続評釈(二) 』の方にでてきます。
こちらも、面白かったので最後に引用してみたくなりました。
うん。全文引用したいけれど、最後の箇所だけにします。
「 『宝の持腐れ』という事象が起きるのは、宝を持っている者が、
それが宝であることを知らない場合もあり、
宝を用いる能力を持たない場合もあり、
宝を用いる機会を得ない場合もあり、
宝を用いようとする意欲のない場合もあり、
宝は用いなければ宝ではないことを知らない場合もあろう。
これらの場合、これをわらって、この諺が用いられるのである。 」
( p171 「続評釈」 )
この最初の本の方にある『 はしがき 』にある言葉も忘れがたい。
はい。そこも引用しておきます。
「 諺は、批評の文芸であり、そうして、
日本文芸の起源から今日に至るまで、
一つのジャンルとして、日本文芸の中に、
かなり重要な位置を占めているものと思っている。
本書においても、主としてそういう見地から扱ったつもりである。 」
なるほど、重要な位置の在りかを『 評釈 』として
丁寧に、ツボを押さえるようにして説明されています。
それで、読み甲斐の、手ごたえが感じられるのですね。