和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

『小見出し』のルーツ。

2021-06-15 | 本棚並べ
たとえ、ぎこちなくてもつい引用をする方です。
それを続けていると、引用のルーツをたどれる。

他人の文から、そのルーツを思うことがあります。
引用と気づかないほどに、咀嚼し自在に操り血肉化
されている方の文章をよめるのは、楽しみで醍醐味。

昨日も、そんな例を思い浮かべました。
それは編集者の鷲尾賢也の言葉。

「・・・・節までは著者の構成に含まれる。
ところが小見出しは、著者が考えるのではない。
編集者が読者のために挿入するものである。・・・・」
 ( p129「編集とはどのような仕事なのか」)

この編集者が挿入するという『小見出し』が、印象に残ります。

昨日、岩波新書の梅棹忠夫著「知的生産の技術」を開くと、
第一章『発見の手帳』に、ご自身のメモを発展させながら、
その過程で『小見出し』の元祖らしき記述があるのでした。

「『発見の手帳』は、単なる精神の成長の記録などではなくて、
知的蓄積のための手段なのだから、それは、あとで利用できな
ければならない。かいてあることのうち、じっさいにどれだけ
をあとから利用するかは別としても、すくなくとも利用の方法
だけは確立しておかなければならない。

利用の方法もないようなものなら、
とうていながつづきするはずがないのである。

そのために、いくつかの実際的なくふうが必要である。
・・・・のちには、1ページ1項目という原則を確立し、
そしてページの上欄に、そのページの内容をひと目で
しらせる標題をつけることにした。いくらみじかい記事でも、
内容がかわれば、つぎのページにすすむ。・・・・・・・

一冊をかきおえたところで、かならず索引をつくる。
すでに、どのページにも標題がついているから、
索引はなんでもなくできる。・・・」(p31)


この『どのページにも標題をつける』と
鷲尾氏の『新書、選書などは小見出しを頻繁につける。
おそらく見開きにひとつぐらいを原則にしているのではないか』
(p130「編集とはどのような仕事なのか」)

この共通した相似形を思い描ける不思議。
はい。こういうのが新書の楽しみですね。

また、鷲尾氏の、その本には
『編集者は読者の代表である。第一の読者である。』(p112)
という箇所も、忘れがたい。最初に読み、読めるという醍醐味。

そうですそうです。読者が身銭を切って買うように、
出版社も赤字覚悟で、身銭を切る場面がありました。

「『季刊人類学』という雑誌を社会思想社からひきついで、
編集実務を講談社が引き受けていた。当然赤字であるが、
今西錦司、梅棹忠夫以下のいわゆる文化人類学関係の
著者獲得の一方法としてはじめたと聞いている。・・・」(p211)

うん。こうした出版社の、赤字覚悟が、
まわりまわって読者が本を買う行為へ
つながっていると思えてくるのでした。

はい。これからは、真っ先に読む編集者の気持で、
毎ページ単行本に小見出しを書きこめたらいいのですが、
それにしても、装幀がりっぱな本だと、
オーラが出ているようで、ひるみます。
その点、新書ならお気軽で、
まずは、新書で、編集者の小見出しとのコラボ。
うん。鉛筆片手に、これなら出来そうです。





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