和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

『安房郡の関東大震災』余話

2024-06-30 | 安房
「安房郡の関東大震災」の題で1時間のお話をするのですが、
1時間という枠の中へ納まらないそんな話があります。
拡散してゆくあれこれを、集中して枠に入れ込むには、
ここはどうも、削らなければならないあれこれがあり、
けれど、そのまま削り消してしまうのはどうも惜しい。

当ブログは、そんな削りかすで収まりきれない思いを、
存分に載せて記しておけることの、楽しさありがたさ。

ということで『 「安房郡の関東大震災」余話 』として、
枠に収まらない話しを『余話』ということで記しおきます。

 かりに『房総の海と牛』と題しておきます。

「安房震災誌」に、私に気になる2つの言葉がありました。

   『 海の時代 』 ( p276 「安房震災誌」 )
   『 牛乳の国 』 ( p256 「安房震災誌」 )

この震災誌では、震災にまつわる『海の時代』と『牛乳の国』とが
語られ展開してゆくのですが、ここから、私に思い浮かんで来たのは、
海と牛との2つの絵でした。

『海の時代』から浮んできたのが、青木繁の絵『 海の幸 』でした。
『牛乳の国』から次に浮んだのが、坂本繁二郎の絵『うすれ日』です。

明治37(1904)年に、青木繁・坂本繁二郎らが千葉県布良海岸へ行きます。
そこで青木繁は『海の幸』を描き、9月の白馬会に出品しております。

ちなみに、日露戦争は1904~1905年です。
1902年に、青木繁は徴兵検査のため帰郷、近視性乱視のため不合格。
そうして、坂本繁二郎も徴兵検査で身長が足りず不合格でした。

明治37年(1904)8月22日に青木繁は、布良海岸から、
福岡県八女郡三河村の友人へと手紙を送っております。
その書き出しは、こうでした。

「 其後は御無沙汰失礼候、もー此處に来て一ヶ月余になる、
  この残暑に健康はどうか? 僕は海水浴で黒んぼーだよ、

  定めて君は知って居られるであろうがここは萬葉にある
 『 女良 』だ、すぐ近所に安房神社といふがある、官幣大社で、
  天豊美命をまつったものだ、何しろ沖は黒潮の流を受けた激しい崎で
  上古に伝はらない人間の歴史の破片が埋められて居たに相異ない、

  漁場として有名な荒っぽい處だ、冬になると四十里も五十里も
  黒潮の流れを切って二月も沖に暮らして漁するそうだよ・・・    」

こうして、布良で青木繁は『海の幸』を描きました。
その青木繁は、明治44年3月25日に29歳で亡くなっております。

明治45年7月30日、明治天皇がなくなられました。
大正と改元されたその秋の第6回文展に坂本繁二郎の『うすれ日』が出品されます。

大正元年(1912)坂本繁二郎(30)は房州御宿地方に赴いております。
その年の作品は、『うすれ日』『御宿村の一部』『海藻とりの女』。
次の年の作品は、『魚を持って来た海女』『海草採りの女』『犬のいる風景』。
翌々年の作品は、『人参畑 房州波太漁村』『海岸の牛』『早春』『漁村』。

夏目漱石は、坂本繁二郎の『 うすれ日 』の
絵の評文を新聞に載せており、そこを引用してみます。

「 『 うすれ日 』は小幅である。
  牛が一匹立っているだけである。・・・

  この牛は自分の嫌いな黒と白の斑(ぶち)である。
  その傍には松の木か何か見すぼらしいものが一本立っているだけである。

  地面には色の悪い夏草が、しかも漸(やっ)との思いで
  少しばかり生えているだけである。 ・・・・・・

  それでもこの絵には奥行きがあるのである。
  そしてその奥行きはおよそ一匹の牛の寂寞として
  野原に立っている態度から出るものである。 ・・・・  」

坂本繁二郎著「 私の絵 私のこころ 』(日経新聞社・昭和44年)には、
はじめの写真入りページにこの絵が掲載されておりました。
本には、坂本繁二郎の文がありますので、そこから引用。

「 うれしかったのは夏目漱石の評文を新聞で見たことです。
  切り抜きを保存しているのですが・・・・

  牛は好きな動物です。自然の中に自然のままでおり、
  動物の中でいちばん人間を感じさせません。
  大正時代の私は、まるで牛のように、牛を描き続けたものです。 」

大正元年に、坂本繁二郎の絵を展覧会で見た夏目漱石は
大正5年12月に亡くなります。その大正5年の最後の夏に
漱石は、芥川龍之介らに手紙を二回にわけて送っております。
その手紙のなかにも、牛がでてくるのでした。
最後に、2つ漱石の手紙から牛がでてくる箇所を引用しておわります。


8月21には、芥川龍之介・久米正雄が、
千葉県一ノ宮から葉書をよこしたのに対して返事を書いております。

「・・・・・何か書きますか。・・・無暗にあせっては不可ません。
  ただ牛のやうに図々しく進んで行くのが大事です。・・・・・ 」

つづいて、8月24日にも漱石は手紙を書いております。

「 此手紙をもう一本君等に上げます。
  君等の手紙があまりに溌溂としてゐるので、
  無精の僕ももう一度君等に向って何か云ひたくなったのです。・・・   」


「  ・・・・牛になる事はどうしても必要です。
  吾々はとかく馬になりたがるが、牛には中々なり切れないです。

  ・・・・あせっては不可せん。頭を悪くしては不可せん。・・・

  決して相手を拵らへてそれを押しちゃ不可せん。
  相手はいくらでも後から後からと出て来ます。そうして吾々を悩ませます。

  牛は超然として押して行くのです。
  何を押すかと聞くなら申します。人間を押すのです。

           ・・・・ 是から湯に入ります。

       8月24日       夏目金之助        」






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