和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

講座参考本⑬

2024-07-27 | 安房
千葉県立安房南高等学校(女子高)の
「創立百年史」(平成20年2月29日発行)から、

大正13年3月島崎靖(高女14回卒)の回想文
「ああ震災」を引用してみます。

「その瞬間・・家屋の下敷となった一家五人の者は、
 九死に一生を得て我先にと小さな穴を破り、
 危ふい足取りで漸く安全地帯へと逃れ出たのは、
 それから間もない時であった。 」(p79)

当日の余震回数の、正確な記録などは知り得ないわけですが、
それに当日天候などを気にしながら文をたどることにします。

「しかし、今といふ今は如何ともする術さへもなく
 それからそれへと絶え間なく響く物すごい地鳴、それにつづく大震動!
 ただ私共の恐怖の念をより以上濃厚にさせるのみであった。

 午後の熱し切った太陽は一層の熱を加へて、
 哀れな避難民をいやが上にも照り付ける。

 三時と思はれる頃、余震もやや弱くその数も少し減じて
 来たのを見定めて、もろくも破壊された家の中にもぐり込んで
 重要な書類、家具など拾ひ集め漸く少しづつ運び出したのである。」(p80)

周囲の人たちの様子も描写されておりました。

「とやかくする中太陽は無情にも没し去って
 四辺はたそがれの気に装はれた。

 急に人々は避難所をもとめて帰って行く。
 往来は急に人通りが多くなった。
 そこにはかめの中に入れた死人を運ぶ車も通った。
 哀れにも苦悶しつつある怪我人も通った。
 母親に死に別れた悲しさに人前もはばからず
 狂わんばかりに泣き叫ぶ青年も通った。・・・・

 方々見舞や手伝ひに奔走された父も帰られて、
 やがて一つのおむすびに空腹を凌ぎ
 取敢へず小屋を立てる事となった。
 庭の一隅に筵(むしろ)を敷き
 四壁と天井とは有合せの筵を張ったのみの簡単な小屋であった。
 一同は詮なくそこで雨露を凌がねばならなかった。」

このあとに、夜になる心境を語った箇所や、蚊に攻められる様子。
いまなら、広報が余震ごとに津浪への注意を呼び掛けるのですが、
当時は、どのような状況であったのか具体的に語られていきます。

「 不安の中に夜は訪れて次第に更けて行く。
 はるか那古の空は盛んに燃え上がる焔の為に淡紅色の層をなして
 暗黒の夜の空を色どって居た時は、
 言ひ知れぬ物すごさを感ぜずに居られなかった。

 今日午前中まで存在して居た歓楽の住家が、
 今は自分の眼の前に敗残の大きな黒い影となって
 横たへられて居るのを見た時、又も言ひ知れぬ
 涙ぐましさにしばらく茫然として、
 大自然に対しては如何に人力が微弱なものであるかを
 嘆息せずには居られなかった。 」


「 『 つなみつなみ 』人々はかう叫びながら高台の方へ急ぐ。

 気付いて見ると波の音は異様なひびきをつたへて居る。
 しばらくたつと下の通りまで切迫したかの様にひびいて来た。

 隣の人は食料を持って逃げ支度をして居る。
 自分達はぢっとして居られず危機一髪の用意を整へて待ち構へた。

 幸ひそれは流言に過ぎなかった。
 人々は漸く安心したらしく、それから後は騒々しい人声も
 絶え細いともしびも消されて全くの静寂となった。

 群をなして迫って来る蚊に攻められ、
 常ならばあけやすき夏の夜を足りなく感ぜられるのに、
 その夜は一刻千秋の思ひにただ夜の明けるを待って居たのであった。」

はい。このあとの締め括りもあるのですが、
私はここで、引用を置きたいと思います。
なお、この文は、大正14年4月『交友会雑誌』第6号に掲載されたとあります。
 



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