この本の「緑雨の人物」という五㌻ほどの文に
「紅葉と、露伴と、子規と、漱石と、緑雨と、この五人が揃いも揃って慶応三年に生れて明治の文壇に活躍し、それぞれに個性を発揮しているのが偉観である。」(p144)
とありまして、ああそうかこれをヒントに、あと外骨と熊楠と二人を加えて坪内祐三著「慶応三年生まれ七人の旋毛曲(つむじまが)り」(マガジンハウス)という本が膨らんでいったのだなあ。と改めて思いました。
この岩波文庫には最後に「編後附言」と題して、小出昌洋氏が書いておりまして、
そこに沼波瓊音著「徒然草講話」のことが出てくるのでした。
「一日、先生(森銑三)のお宅に参上して、沼波さんの『徒然草講話』を入手したことを告げたら、ああた、それはよかった、今日はお持ちですか、というので、早速持参した同書をお渡ししたら、残念ですが、これは重刊本で、沼波さんのいいところが訂正せられてしまっていて、面白くありません。しかしこれはこれで読まれないこともないのだからよいでしょう、といわれたのだった。同書の刊行されるや、沼波さんの個性が強く出で、あるいはまた沼波さんが兼好そのひとになって物をいうところもあるものだから、随分と批判せられたとのことだった。それで再版には訂正するところがあったという。・・・」(p444)
はあ、私が読んだのも重刊本のほうです。
これもよかったのに「残念ですが」といわれてはショック。
また、沼波さんといえば、この文庫の本文に「田岡嶺雲の本領」という文があるのですが、
そこに「嶺雲に関する文献の間で、やや変り種に属するものに、沼波瓊音の『我が知れる嶺雲子』の一文があって・・久々に右の一文をも読返して、私はなつかしさに堪えなかった。その文は、俳諧方面を通して嶺雲を語っている・・」(p183)
最近でた「知の自由人叢書 山口昌男監修」の一冊「意匠ひろひ 沼波瓊音」(国書刊行会・初版が2006年8月とあります)にちゃんと、「我が知れる嶺雲子」が載っているのでした。
「紅葉と、露伴と、子規と、漱石と、緑雨と、この五人が揃いも揃って慶応三年に生れて明治の文壇に活躍し、それぞれに個性を発揮しているのが偉観である。」(p144)
とありまして、ああそうかこれをヒントに、あと外骨と熊楠と二人を加えて坪内祐三著「慶応三年生まれ七人の旋毛曲(つむじまが)り」(マガジンハウス)という本が膨らんでいったのだなあ。と改めて思いました。
この岩波文庫には最後に「編後附言」と題して、小出昌洋氏が書いておりまして、
そこに沼波瓊音著「徒然草講話」のことが出てくるのでした。
「一日、先生(森銑三)のお宅に参上して、沼波さんの『徒然草講話』を入手したことを告げたら、ああた、それはよかった、今日はお持ちですか、というので、早速持参した同書をお渡ししたら、残念ですが、これは重刊本で、沼波さんのいいところが訂正せられてしまっていて、面白くありません。しかしこれはこれで読まれないこともないのだからよいでしょう、といわれたのだった。同書の刊行されるや、沼波さんの個性が強く出で、あるいはまた沼波さんが兼好そのひとになって物をいうところもあるものだから、随分と批判せられたとのことだった。それで再版には訂正するところがあったという。・・・」(p444)
はあ、私が読んだのも重刊本のほうです。
これもよかったのに「残念ですが」といわれてはショック。
また、沼波さんといえば、この文庫の本文に「田岡嶺雲の本領」という文があるのですが、
そこに「嶺雲に関する文献の間で、やや変り種に属するものに、沼波瓊音の『我が知れる嶺雲子』の一文があって・・久々に右の一文をも読返して、私はなつかしさに堪えなかった。その文は、俳諧方面を通して嶺雲を語っている・・」(p183)
最近でた「知の自由人叢書 山口昌男監修」の一冊「意匠ひろひ 沼波瓊音」(国書刊行会・初版が2006年8月とあります)にちゃんと、「我が知れる嶺雲子」が載っているのでした。
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