和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

神棚・仏壇。

2009-08-11 | Weblog
梯久美子著「昭和二十年夏、僕は兵士だった」(角川書店)
を読んだら、家にある神棚や仏壇のことを思いました。
以下、思いつくままに。

司馬遼太郎著「この国のかたち」に「ポンペの神社」という文があります。

「十数年前、私が四国の善通寺に行ったとき、そこの国立病院の名誉院長だったこの人にはじめて会った。『私の生家の庭に、ポンペ神社という祠(ほこら)がありまして』といわれた話は、わすれがたい。幼少のころ、荒瀬(進)さんは、毎朝庭に出てその祠をおがまされた。あるとき祖母君に問うと、『ポンペ先生をお祀りしてある』という。オランダ人、ポンペ・ファン・メールデルフォールドのことである。ポンペは、江戸幕府がヨーロッパから正式に招聘した最初にして最後の医学教官だった。・・・安政四年に開講した。・・三期生になって飛躍的にふえ、百二人という多さだった。三田尻での代々の医家にうまれた荒瀬幾造青年の名は、その百二人のなかに入っている。武士待遇の藩医でなく、庶民身分の町医であるかのようだった。惜しくも幾造は、早世した。
ただ、帰国してめとった妻に、ポンペ先生の人柄と学問がいかにすばらしかったかということをこまごまと語った。それだけでなく、ポンペ先生の恩は忘れられないとして、庭に一祠をたてて朝夕拝んでいたのである。
右のことについて、私はかつて書いたことがある。人間の親切(この場合、ポンペの熱心な講義と学生への応対)というものが、幾造の妻に伝わり、さらには孫の進氏にまで伝わったことに感じ入って『胡蝶の夢』という作品を書いた。
・ ・・・・・・・・・・・
唐突だが、右の祠に対する未亡人やその孫の感情と儀礼こそ、古来、神道(しんとう)とよばれるものの一形態ではないか。」


「栗林忠道 硫黄島からの手紙」(文藝春秋)に、昭和二十年一月二十一日の手紙があります。そこから、

「遺骨は帰らぬだろうから、墓地についての問題はほんとの後まわしでよいです。もし霊魂があるとしたら御身はじめ子供達の身辺に宿るのだから、居宅に祭って呉れれば十分です(それに靖国神社もあるのだから)。それではどうか呉々も大切にして出来るだけ長生きをして下さい。長い間、ほんとによく仕えて呉れて難有(ありがたく)思っています。この上共子供達の事よくよく頼みます。    良人より 妻へ  」


この栗林忠道氏についての本を書いたのが、梯久美子でした。
その梯(かけはし)氏が、「昭和二十年夏、僕は兵士だった」を出された。
五人の昭和二十年の回想をインタビューしてまとめられたものです。
その「まえがき」に、こんなエピソードが書き込まれておりました。


「平成19年の春、ある雑誌の記事が目にとまった。俳人・金子兜太(とうた)氏のインタビューである。健康法を問われ、当時87歳の金子氏は、毎朝、立禅をしています、と答えていた。立禅というのは彼の造語で、座禅を組む代わりに立ったまま瞑想するのだそうだ。しかし、どうしても邪念が浮かぶ。そこで、忘れられない死者の顔と名前を、ひとりずつ思い浮かべていくのだという。この人は、こんなふうに死者とつきあっているのか。そう思った。金子氏は戦時中、海軍主計中尉としてトラック島に赴いている。日本の将兵の多くが、おもに飢えのために死んだ島だ。やせ衰えて死んでいった人たちの、小さくなった木の葉のような顔が目にこびりついて離れないと、記事の中で語っていた。」

こうして、この本に登場するのは、金子兜太・大塚初重・三國連太郎・水木しげる・池田武邦。ただのインタビューと違って梯久美子氏は、その戦時中の関連する背景まで記述しておりました。金子兜太氏の文には、同じトラック島にいた梅澤博氏が出てきます。

「朝、仏壇に水をあげるとき、梅澤氏はかならず埋葬した人たちのことを思う時間を持つという。『われわれが思い出すときだけ、かれらは内地に帰ってこられる―――そんな気がするんです。もうあの人たちのことを知っている人間も少なくなりました。生きている限り、わたしが覚えていてやらなくては』」(p26~27)

金子兜太氏が復員船で帰国する昭和21年11月のことも書かれておりました。


「日本から迎えにきた駆逐艦が島を離れるとき、甲板の上から、米軍の爆撃で岩肌がむきだしになったトロモン山が見えた。そのふもとには、戦没者の墓碑がある。このとき金子氏は、こんな句を作っている。

  水脈の果(はて)炎天の墓碑を置きて去る

みずからが『人生の転機といえる二つの句のうちの一つ』と言う句である。
甲板の上で金子氏は、墓碑に見られているように思ったという。死者が最後の一瞬まで自分たちを見送ろうとしている、と。」

五人が梯氏の本には登場するのでした。
その五人の兵士を読みおわると、自然と、五人の戦争を思うのでした。すると、小林秀雄の「美しい花がある、花の美しさというものはない」という言葉が浮かぶのでした。戦争の悲惨というものはない。ここには五人の兵士の悲惨さがある。戦後に、その悲惨をかかえて生きた強さが、たんたんと語られているのでした。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 露伴のために | トップ | 新聞概論。 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事