芳賀徹の父・芳賀幸四郎に「千利休」と題する本がありました。
以前に買ってあって、読まずにというか、読む気にならずにありました。
そういえばと、その「はしがき」をひらいてみる。
そこに桑田忠親の名前が登場していたのでした。
「・・いざ実際に執筆にかかってみると、
その困難さは当初の危惧をはるかに超えるものであった。
桑田忠親氏や唐木順三氏らに、
それぞれ『 千利休 』と題する名著があり、
それに利休関係の史料はほとんど発掘しつくされていて、
従前の研究水準以上に出ることが、不可能とさえ思われた・・
かえりみてまことに慚愧にたえない。
このまま筐底(きょうてい)に秘めて、
さらに数年研究を続け彫琢を加え、
いささかなりと自信をもって世に送りたいのが、
いつわらぬ私の真情である。
しかし書肆の督促と、この小稿を閲読してくれた友人が、
『 現在の段階では、出す意味は十分にある 』といってくれたのを
跳躍台として、あえてこれの上梓に踏みきることにした。・・・・
( 昭和38年3月1日 ) 」
うん。千利休を書いたり語ったりするというのは、
こうして、率直に経過を語りかけられるのがポイントなのかもしれませんね。
うん。私には芳賀幸四郎著「千利休」は読み進められなかったのですが、
今回、ひょんなことで桑田忠親著「千利休」を読んでおります。
といっても、パラパラ読みでまことに情けない。
情けないけれど、まあいいや。このままに読み進めます。
そのうち、唐木順三著「千利休」と芳賀幸四郎著「千利休」も
はずみで、読めるかもしれませんしね。
はい。今回の最後はというと
桑田忠親著「定本 千利休」(角川文庫)の
第六章「秀吉の御茶頭となる」からの引用。
「・・彼は、東山時代このかた重んぜられていた唐物道具に
対するぎょうさんな礼讃ぶりに背なかを向け、
唐物(からもの)よりはむしろ井戸茶碗のごとき
高麗物(こうらいもの)の侘びたのを愛する
侘び数寄の傾向からさらに一歩を進め、
国粋的茶器の創造に心をとめていたのである。
長次郎に焼かせた利休七種茶碗など、
その代表的なものであった。
このころすでに唐物中心の数寄大名のお祭騒ぎに対して、
彼が苦々しく感じたのも道理であろう。 」(p67~68)