「梅棹忠夫の京都案内」(角川選書)に、
こんな箇所。
「・・・・・京都の生活はじつに
たくさんの年中行事でかためられている。
たとえば8月。
8月はお盆である。
上(かみ)は閻魔堂、下(しも)は六道さんへ
お精霊(しょうらい)さんをむかえにいく。
16日は大文字。地蔵盆に六地蔵まわりに
六斎(ろくさい)念仏とくる。
すべて、いつ、どこで、なにをするかが
きちんときまっている。
お上りさん用の観光地はしらんでも、
こんなことならみなしっている。
いちいち何百年の伝統をもつ。
おそろしき文化である。
わかい世代は、こういうものに反発して、
一時とおざかるが、やがてまたもどってくる。
そして伝統の継承者となる。」(p80)
ここに、「やがてまたもどってくる」とありました。
そこで、連想したのが
小長谷有紀さんの文章でした。
「私は学生時代、日本のように
人間関係がからまりあうのはうっとうしいと
感じてモンゴルに留学したのだったが、
かの地ではモンゴルの良さを知ると同時に、
ひるがえって日本を再評価するようにもなった。
かつて短所だと感じていたことを
長所だと思うようになっていた。
それぞれの良さが見えてきたとでも言っておこう。
狭いところに大勢が住む。
そんな街の暮らしには、きっとなにかしら
協調のための文化的なしかけがあるにちがいない。
そんなふうに考えるようになり、
京都の地蔵盆を調べ始めたのだった。」
これが語られているのは小長谷有紀著
「ウメサオタダオが語る、梅棹忠夫」(ミネルヴァ書房)。
そのp23~25。つづけて引用したいのですが、
ここまでにして、簡潔につぎにいきます(笑)。
「やがてもどってくる。」と、
「ひるがえって日本を再評価するようにもなった。」
という文を並べてみました。
そこで、あらためて、思いかえすのは、
梅棹忠夫著「モゴール族探検記」(岩波新書)での
祇園祭とハモの切りおとしの幻影でした。
小長谷有紀さんの、この本には、
1955年のカラコラム・ヒンズークシ学術探検隊に
参加し、モゴール族の調査をおこなった。
その翌年の日記からの引用がありました。
「・・(梅棹忠夫の)日記で注目すべきは、
1956年4月16日の記録である。
『桑原(武夫)さんと6時ごろまで話す。
歴史家になりたい、という話をはじめてした』とある。
ずっと思っていたことをようやく話したという
ニュアンスのただよう書き方である。」(p56)
もどって、梅棹忠夫著作集第四巻の
「第四巻のまえがき」を引用すると、
「アフガニスタンのモゴール族の調査は・・・
わたしにはまったくあたらしい視界をもたらした。
わたしはイスラーム文明およびインド文明に
いやおうなしに目をひらかされた。わたしが
比較文明論などという、とほうもない領域に
足をふみいれることになったのも、
この旅行がきかけである。」
年譜をおさらいすれば、
1955年 京都大学カラコラム・ヒンズークシ学術探検
1956年 「モゴール族探検記」(岩波新書)
1957年 「文明の生態史観序説」(中央公論2月号発表)
天秤でいえば、もともと片方にあった京都を、
もう片方の、イスラーム文明とインド文明が、
京都の存在の大きさを、浮かび上がらせた。
こんな、すんなりとした仮説をたててみると、
梅棹比較文明論での、京都のポジションが、
より鮮明になってくる気がしてくるのでした。
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