小沢信男著「裸の大将一代記」(筑摩書房・2000年)の最初の方を読む。
吃りながら雄弁に、山下清が田舎にいって口上を述べる
その口上の箇所も(p51)、何だか寅さんが思い浮かんできました。
それはそうと、小沢氏の文が冴える箇所。
「かの≪白痴の天才≫清少年と、
この馬橋や我孫子の商家の人々が見た山下清とは、
おのずから別人のようだ。
貼り絵の天才少年への有識者たちの驚きには、
あんな白痴が、という前提が確固としてあるわけだろう。
一方、人並み以下とこきおろしながら魚屋にせよ弁当屋も、
それなりにこの世に生きて働いて、やがては
所帯を持つだろうことを、むしろ当然の前提としている。
どうやら世間が、二重構造になっていたのだろう。
すくなくも昭和のこの時期あたりまでは。・・・
この国には精神薄弱児教護の施設もなく、その構想さえも欠けていた。
反面、ジモジモでは、落語の『鮑(あわび)のし』がいい例で、
なりたい職人もしっかりしたかみさんさえあてがえば世渡りができた。
どの町場でも村々でも。
そのシモジモの余裕が、近代産業社会化に揺さぶられ、
現代情報社会に均(なら)されて、
のっぺらぼうに酷薄な世間となってゆく。
その端境期のあたりを縫うように遍歴した、山下清は、
いわば最後の証言者かもしれない。 」(p71~72)
うん。思い浮かぶのは、松田哲夫さんが、小沢信男さんを評して
「 小沢さんとつきあうようになってわかったのだが、
この人は視点がいい、文章がいい・・・・ 」
(p156 松田哲夫著「縁もたけなわ」)
うん。山下清の足跡を丁寧にたどってゆくのですが、
ときどき、ハッとする視点と出会えるのでした。
といっても、まだ100ページも読んでいないのですけれど。
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