杉本秀太郎著「洛中通信」(岩波書店・1993年)。
その最後の方でした。短文で見逃しやすいのですが
『糸ざくら』という文。4月15日のこととあります。
「近衛邸あとの糸ざくらは折しも満開だった。
すこし風がある。なびきみだれ、ゆれやまない
糸ざくらに、傾いた春の日が差している。
私は瞑想という言葉をこれまで使ったことがない。
しかし、このときの糸ざくらは私の瞑想裡に咲き充ちていた、
と言うしかないように思う。
弧座していたベンチの近くに立て札があり、
・・・歌一首がしるされていた。」
昔より名には聞けども今日みれば
むべめかれせぬ糸ざくらかな 孝明天皇
「安政二年、近衛邸遊宴のみぎりの詠という。
いかにもこれは儀礼としての和歌にすぎない。
しかし、歌ぐちの当たり前な、ととのったこういう歌は、
しずかな水面が物の影を映すように心の影を映して、
心をなだめ、なぐさめることがある。・・・」(p221~222)
ここを引用できれば、私は満足。以下、蛇足。
というか、司馬さん風にいうならば「以下、無用のことながら」。
この「洛中通信」は、新聞・雑誌・月報などに掲載された
短い文をまとめた一冊。1980年から1992年までの文です。
今回パラパラとめくっていて気がついたことがありました。
杉本氏の師・桑原武夫が、亡くなったのが1988年4月10日。
期せずして、その頃の文がところどころに読めるのでした。
副題に「桑原さんのこと」とある文は、
1988年7月20日に雑誌に掲載されたもの。そのはじまりは。
「桑原さん、とそう呼ぶことであとをつづける。
桑原さんは私にとってはフランス文学の先生であり、
文学研究、文明論、日本文化論、人生論の先生であり、
文章術の二人とない師だった。けれども、
桑原さんは私を弟子として扱われたことは決してなく、
つねに若い友人として遇された。
えらそうにする人を桑原さんはもっとも軽蔑された・・・」(p195)
こうして、はじまるのでした。
最初にもどって、短文「糸ざくら」は、
地理的な記述がはじめにあるのでした。
その箇所を引用。
「京都御所の今出川門を入って南に歩くとすぐ右手に、
近衛邸の築山が残っている。いまも蒼古とした木立に掩われ、
泉池もわずかにあとをとどめる。
築山の裏にまわると、かつて近衛邸の広い庭だったあたりは
林間の空地の趣を呈していて、まんなかに数株の糸ざくらが、
背高く、枝しなやかに立っている。
4月15日。桑原武夫先生の初七日。
お宅にうかがっての帰るさ、塔ノ段から薩摩藩士墓地の
まえを通り、相国寺を抜けて、今出川門から御所に入った。
生前、先生の好まれた散歩の道すじ。」(p221)
はい。このあとが、今回の
はじまりに引用した文へと、つながっておりました。
調べられたのですね。参考になりました。
杉本秀太郎氏は、
『二人とない師』を失った。その
『初七日。お宅にうかがっての帰るさ、』
『生前、先生の好まれた散歩の道すじ。』
を歩くのでした。
まだ、どこからか、顔を見せてくだされそうで、
桑原さんがよく知る散歩の道すじをたどっている。
そこに『糸ざくらは折しも満開だった。』
桑原さんとともに『このときの糸ざくらは
瞑想裡に咲き充ちていた、』
この幽明を異にする、動揺のざわめきの
『心をなだめ、なぐさめること』のためにも、
『歌ぐちの当たり前な、ととのった・・歌』が、
まるで東山魁夷の絵の中の
『しずかな水面が物の影を映すように
心の影を映して』いるような歌の佇まいの
なかに、自分をとりもどしているような。
ちなみに、この『糸ざくら』は
読売新聞1988年5月に掲載されたもので、
短文の最後のしめくくりは、
「『むべめかれせぬ』歌の不思議。」
となっておりました。