和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

後藤新平の震災復興。

2024-02-09 | 地震
注文してあった古本が昨日届く。
「震災復興 後藤新平の120日」(藤原書店・2011年)。
624円+送料240円=864円。はい。帯つきで、きれいな一冊。

読みやすく、興味をもつ方には、ありがたい一冊。
とりあえず、関東大震災の際の首都はどうだったかを引用。

「1923(大正12)年8月24日、時の首相加藤友三郎が亡くなり、
 外相の内田康哉が臨時に内閣の首相を務めていた。

 28日には海軍大将の山本権兵衛に次期内閣を組織するよう『大命』が
 降下したのだが、組閣は難航し新内閣はまだ発足していなかった。」(p18)

こうした状況のなかで、関東大震災がおこる

「・・内田臨時首相、水野錬太郎内務大臣ら内閣の閣僚は
  首相官邸の植込みの中で閣議を開いた。
 
  臨時震災救護事務局を特設し、臨時徴発令の発布、
  戒厳令の一部地域への適用などの応急処置を取ることになった」(p18)

この次に、山本と後藤とが登場しておりますので、そちらも引用。

「この日、山本は海軍の社交クラブである築地の水交社に陣取って
 組閣の準備をしていた。そこへ大揺れが来てやむを得ず自宅へ帰った。

 翌日の9月2日の模様について、山本はこう回想している。

『 火につつまれた地震の一夜が明けると、どこからともなく
  流言蜚語(りゅうげんひご)が伝わって来た。

  思う人を呼びにやっても、なかなか来ないし、又情報すらない。
  実に気が気でなかった処へ、来たのが後藤(新平)伯爵であった。
  
  ・・伯が来て、大体の様子も判った。依って自分は、
  これでは、完全の組織を望む訳には参らぬ。しかし、
  内閣は一日もむなしくすべからず、2、3の人とでも
  一緒となって働こうというと、伯は勿論やります、というのだ 』

うん。もうすこし引用して今回はおわります。

「 ・・・こうして後藤新平は山本内閣の内務大臣に就任し、
  以後『帝都復興』に主導的な役割を果たすことになる。
  9月2日、山本や後藤の活動により、どうにか閣僚の人選が進んできた。

  農商務大臣兼司法大臣になった田健治郎はこう回顧している。

『 9月2日に山本伯からただちに親任式を赤坂離宮に於いてするから、
  参内の用意をして来てくれと、うんもすんもなく私の家
  ――多摩川にある――へ迎いの自動車を寄越して来た。
  ・・・・あの地ゆれのする中をその自動車に乗って・・・ 』

 大蔵大臣には後藤みずからが時の日銀総裁である井上準之助の
 説得に出かけた。井上はこう語っている。

『 閣僚の顔触れも揃わぬ所に後藤子爵が行って、
  こうなった以上は何が何でも内閣を組織しなければならぬ。

  こういうことを非常に力説されて、その足で私の所に2日の日に来られて、
  とにかく内閣を拵えなくては仕様がない、
  前内閣の人はそれだけの責任は負わないし、
  この惨状を眼の前に見て躊躇して居る場合ではない、
  山本伯にもそう話して賛成して居られるからということであったのです」
                          (p21~22)


こうして、9月2日夕、電灯とてなくローソクでの山本内閣親任式。


うん。せめて、ここも引用しておわります。

  9月12日 『帝都復興の詔書』公布。

「・・・詔書が発せられた3日後の9月15日、
 摂政官(のちの昭和天皇)は焼土東京を巡視し、後藤内相も従った。・・

 後藤の『東京計画』について、昭和天皇は強い印象を持たれたようだ。
 関東大震災60年目の1983年、昭和天皇は記者会見で

『 復興に当って、後藤新平が非常に膨大な計画をたてたが、
  いろいろの事情でそれが実行されなかったことは
  非常に残念に思っています。 』と発言されている。 」(p35)




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