後藤新平研究会編「震災復興 後藤新平の120日」(藤原書店・2011年)は、
大きな目線での記述のなかに、細部からの引用が生き生きと挟まっています。
たとえば、『帝都復興秘録』から抜き出した引用がありました。
それは、後藤新平の『大風呂敷』を指摘したあとにありました。
「・・・『大風呂敷』を本多静六に広げさせる一方、
後藤は人心を和らげるために、こんなことも提案したという。
山本権兵衛首相はこんな逸話を残している。
『 民心安定の為の一方法として、後藤内相は、
兵に市中を喇叭(らっぱ)を吹き歩かせて貰いたい
という提議をした・・・・、
平凡ではあるが大変良い考えと思って、
早速田中陸相に命じて実行させた。
・・・・・・ 余程市民の心を和らげた様に思う。』 」(p40)
たとえば、現在において、こんなことを、やるかやらないか議論した場合に、
人を得なければ、決断する以前に喇叭は吹かれずに終わりそうな気がします。
思い浮かんだのは、筒井清忠著「西條八十」(中公叢書・2005年)でした。
関東大震災の避難の場面でした。そこに西條八十が、絵に描いたように、
『怒り出すのではないかと案じ、止めようとした』判断がありました。
「・・・大混乱の中容易に前へは進めず結局、夜を上野の山で過ごす
こととなった。深夜、疲労と不安と飢えで、人々は化石のように
押しだまってしゃがみ、横たわっていた。
しゃがんでいた八十の隣の少年がポケットからハーモニカをとり出し
吹き出そうとした。八十は一瞬、周囲の人々が怒り出すのではないか
と案じ、止めようとしたが少年は吹きはじめた。
『 それは誰も知る平凡なメロディーであった。
だが吹きかたはなかなか巧者であった。
と、次いで起った現象。――これが意外だった。
ハーモニカのメロディーが晩夏の夜の風にはこばれて
美しく流れ出すと、群集はわたしの危惧したように怒らなかった。
おとなしく、ジッとそれに耳を澄ませている如くであった。 』
人々は、ささやき出し、あくびをし、手足をのばし、
ある者は立ち上って塵を払ったり歩き廻ったりした。・・・ 」(p102)
はい。この文はこれ以上深入りは避けて、
『震災復興 後藤新平の120日』にもどってみると、
明治・大正時代に演歌師として活躍した添田知道(そえだともみち)が
作詞した『復興節』が紹介されておりました。こうあります。
「 下谷で焼け出された添田知道は、惨禍の中で
『 どんな深沈の中でも、人々は音をもとめている、
ということを知った。音。それは生命の律動。
・・・人々は食の飢えもあるが、音にも飢えていたのだ。 』
ということで、引用されている復興節を最後に引用。
うーちはやけても えどっこの いーきはきえない
みておくれ アラマ オヤマ たちまちならんだ
バラックに よーるはねながら おつきさまながめて
エーゾ エーゾ てーいとふっこう エーゾ エーゾ
「 こうして、『復興節』はたちまち多くの人に歌われ、
添田は歌詞を追作した。それが
『 新平さん頼めば エーゾ エーゾ 』である。 」
はい。追作も、きちんと引用しなくちゃね。
銀座街頭泥の海 種を蒔こうというたも夢よ アラマ オヤマ
帝都復興善後策 道もよくなろ 街もよくなろ
電車も安くなる エーゾ エーゾ
新平さんに頼めば エーゾ エーゾ
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