姉の家では、読売新聞を購読しており、
その古新聞を、一ヶ月ごとに貰ってきます。
はい。そのまま読みもしないで積んであり、
その古新聞が読まずに数年分たまっている。
昨日今日と、パラパラと見出しをながめては、
写真や広告に目がいくのですが、そそくさと、
ゴミ回収に出せるようにと、束ねてゆきます。
読売歌壇俳壇と、読書欄とを頁ごときりとる。
そんななかで、
地震関連で、ああそうだと思った箇所がありました。
令和6年能登半島地震は、2024年1月1日でした。その前の年、
令和5年5月6日読売新聞一面に「能登で震度6強」との見出し。
当日(2023年)の社会面ヨコ見出しが「崖崩れ家を直撃」で、
「続く余震『怖くて眠れない』」とタテ見出しがありました。
崖崩れや、屋根がペシャリと崩れた写真が掲載されています。
能登では、半年も前に震度6強の地震に見舞われていたのでした。
そこから、私が思い浮かべたのは房総半島の関東大震災でした。
千葉県郷土史研究連絡協議会編「 房総災害史 」(昭和59年)
( 郷土研叢書Ⅳ・千秋社 )。
そこにある君塚文雄氏の文にこうありました。
「明治時代に入ると、房総半島南部には大被害をもたらした大地震は
あまり見られない。・・・大正時代には、房総南部では11年(1922)
4月26日の地震がやや大きいものであった。
震源地は浦賀水道、規模はM6.9とされている。
筆者も小学生の遠足の途次、那古町藤ノ木(館山市那古)通りで
この地震に遭遇し、驚いて逃げまどった記憶が生々しい。
当時の北条町では煉瓦造りの煙突が折れ、県下全体で
全壊家屋8戸、破損771戸の被害があったといわれる。
続いて翌大正12年(1923)9月1日の関東大震災があった。 」(p174)
この大正11年の地震と、大正12年の関東大震災の地震と、
この2つの地震に関連して私に思い浮かべたのは、
「県立安房高等学校八十年史」でした。
まず、当時の校長先生の文
「大正12年9月1日、正午に近き頃、激震にわかに起る。
予当時校長室にありて、校舎増築の監督と会談中なりき。
大正11年の激震より推して敢えて驚くに足らずとせり。
然れども、動揺激甚にして校舎も倒れんばかりなりしより、
出づるに如かずと・・・出てその前にありし高野槇につかまる。
地の動揺さらに激甚を加へ、振り離されんばかりなり。 」
さらに、柳宗悦にとって事実上の長兄にあたる柳悦多(よしさわ)氏
への記述が、この八十年史に載っているのでした。そこから引用。
「本校校舎は、校長室の一棟(12坪)、理科教室を含む南校舎一部半壊を
残して、一瞬の中に倒壊したのであった。
・・・大半の生徒は下校していたが、たまたま当日同刻、
記念図書館二階広場では、数十名の生徒に対し、
柳悦多氏の野球に関する講話が行われていた。・・・
柳氏はすばやく全員の生徒を階下に避難せしめたため、
生徒に事故はなかったが、自身は川又務五段と向い合って
二階の窓わくに馬乗りにまたがって、悠然としていたところ、
余り激しい震動のため、川又氏は外へ、柳氏は内へ投げ出され、
柳氏は倒壊家屋の下敷きとなって不帰の客となったのであった。
氏(柳悦多)は遠洋漁業に従事し、その基地として館山に在住の傍ら、
大正4年から3年間、本校の柔道教師をもつとめ、
柔道部の興隆にも尽くし野球部の強化にも援助を惜しまなかったのである。」
( p196~197 )
ここで、なぜ柳氏は、二階へと戻ったのか?
当時の安房高校長先生は、
「 大正11年の激震より推して敢えて驚くに足らず 」
と記してあったのがヒントになりそうです。
『 二階の窓わくに馬乗りにまたがって 』という言葉が
貴重な教訓として思い浮かぶのでした。
ちょうど、能登半島と房総半島とを地震の関連で思い浮べたのでした。
注:鶴見俊輔著「柳宗悦」(平凡社選書のち「続鶴見俊輔集4」)にも
この柳悦多氏への記述があるのですが、多少異なります。
私は八十年史の方の記述を事実として採用しました。
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