日露戦争といえば、「日露戦史」の本のエピソードが思い浮かびます。
司馬遼太郎氏が、その古本を買いに行く場面がありました。
「私は昭和29年に大阪の道頓堀の天牛という古本屋さんから買いました。
上のほうに『日露戦史』がありまして、あれを買おうと思って行ったら、
もう、紙屑のような値段でした。考えられない値段でした。
しかもお店の人が、『 こんな本が欲しいんですか 』と言うのです。
・・・・何年もかかって読みましたが、読んでも何のイメージもわかない、
不思議な戦史でした。立派な本ですよ、造本としては。 」
( p175~176 司馬遼太郎著「『昭和』という国家」NHK出版・1998年 )
このあとのエピソードが、一読忘れがたいのでした。
それは、湯川秀樹さんのお父さん小川琢治(たくじ・1870~1941)が
青島(チンタオ)を訪れたときのことでした。
「・・・青島の守備隊長といえば、まあ、閑職ですね。
小川博士が青島に行ってその守備隊長に会うと、
陸軍でもずいぶん優秀な人だと聞いていた人でした。
『 失礼ですが、あなたはどうしてこんな閑職にいるのか 』
と聞くと、その守備隊長は、
『 私はあの悪名高き『日露戦史』を編纂したからだ 』
と答えた。編纂しているとですね、将軍たちがやってきて、
おれのいうことをよく書けとか、
おれのあのミスを書くなとか、さんざん言ってくる。
勲章とか、昇給、昇進に関係してくることですから、
下級の一大佐としては、言うことを聞かないとまずい。
それで、できるだけ言うことを聞きつつ、正しいことも書こうとした。
ところがその正しい部分は
将軍たちがやはり気に入らないこともありまして、
それで袋叩きにあった。
『 とうとうこんな配所の月をながめておるのです 』
というようなお話だったそうです。
いかにも、日本が悪くなろうと、
坂道を落ちていこうとしている話ですね。
ころがっていく最初のエピソードとして、
象徴的だと思います。 」( p176~177 同上 )
私が『安房震災誌』をひらいていると、
文は悲惨なことに事欠かない訳ですが、
どうも何か透き通る明快さを感じます。
それを何と言っていいかわからなかったのですが、
安房郡長・大橋高四郎氏が、震災の翌年に編纂を
白鳥健氏に依頼し後は一切口出しせず、仕事に没頭したことが、
安房震災誌をひらくと、朧げながらも行間から感じられてくる。
そこに点描されている安房郡長のエピソードなどは、
今でこそ、やっと安房郡長の喜怒哀楽が伝わります。
だんだん、こんな引用を書き並べながらの理解です。
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