『安房震災誌』の第4章は「青年団の活動其の他」。
そこのはじまりは、こうでした。
「 正しく云へば、『青年団』『在郷軍人分会』『消防組』は、
各別個の団体であることは勿論であるが、
実際に於ては、同一人にして、此等3団体、若くは2団体に
属してゐるものが多数であるから、茲には単に
『 青年団 』とい名称の下に、各町村に於ける此等の諸団体が
悉く含んでゐるものとして、章を一つにし・・・ 」(p283)
このように定義してから、この章がはじまっておりました。
今回気になったのはこの箇所でした。
「 要するに、地震のあの大仕事を、誰の手で斯くも取り片付けたか。
といったならば、何人も青年団の力であった。
と答ふる外に言葉があるまい。実に青年団の力であった。
ところが青年団には、何の報酬も拂ってゐない。・・・・
然るに報酬どころか、何人も当時にあって、
渋茶一つすすめる余裕さへもなかったのである。それどころか、
飯米持参で、而かも団員は自炊して、時を凌いだのであった。
更らに茲に大書して感謝すべきは、
当時は雨露を凌ぐべき場所とては、北條町では
僅かに北條税務署とゴム工場、納涼博覧会跡の一部に過ぎなかった。
そして税務署以外は、何れも土間である。
折柄残暑で寒くこそはなかったが湿気と蚊軍の襲来には、
安き眠も得られやうがなかった。
加之ならず、何れも狭隘の上に、多人数である。
分けて雨の晩などは雨漏で寝所がぬれて立ち明かしたこともあった。
・・・・・・・・・・ 」 ( p285~286 )
こうして『 何の報酬も拂ってゐない 』という青年団に対して
大橋郡長の名を以て、感謝状が贈られ、奉仕的行為を拝謝した。
とあります。最後にその感謝状を引用しておきたいのですが、
これを載せたあとに、編纂者はこう指摘されておりました。
『 青年団軍人分会の活動振りは、文中によく表現されてゐる。
敢て付加修飾を要しない。当時諸団体の活動は
実に郡民の総てが感謝するところである。 』 (p291)
はい。さいごに、安房郡長大橋高四郎の名の入った感謝状の全文を引用。
感謝状
前古未曾有の震災に当り本郡の被害は実に其極に達し
土地の隆起陥没相次ぎ家屋の倒潰せるもの算なく
死傷者累々たるも之を處置するに途なく
災民餓を訴ふるも給するに食なく
傷者苦痛に泣くも医薬給する能はずして
惨状見るに忍びざるものありき加ふるに
流言蜚語盛に伝はり人心の動揺底止する所を知らざるの時
団員克く協力一致自己の被害を顧みずして
或は死傷者の運搬に
或は倒潰家屋の取片付に
或は慰問品食料品衛生材料等の荷上げ配給に
其他交通障害物排除又は伝令に従事せる等
其の熱烈にして敏速なる奉仕的活動は洵に克く
青年団(軍人分会)の精神を顕著に発揮せるものにして、
本郡に於ける災後整理並に救護事業遂行上
貢献せる所尠からず茲に謹んで感謝の意を表す。
大正13年1月26日
千葉県安房郡長正六位勲六等 大橋高四郎
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