和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

窪田空穂全集第11巻。

2008-04-12 | Weblog
本は買ったりするので、図書館からかりて、読むことは普段めったにありません。というわけで、いざ、図書館からかりますと、私はちょっと本とのつき合い方が違ってくるような感じで、よそよそしく感じながら読むということになります。
今回借りているのは、窪田空穂全集第11巻。そこに載っている「現代文の鑑賞と批評」を読むことが目的でした。ところが、この第11巻は、目的の頁の前にある「近代作家論」というのが、これがめっぽう私には面白い。それをどういったらよいのか。文学史という既製服に、個々の歌人・作家をサイズ別に合わせるのではなくて、ひとりひとりのオーダーメイドを語って微妙なニュアンスに及ぶのです。それが読み込むうちに日本語の文体史とも重なったり、微妙な日本語史となっているような按配なのです。自然な語り口のなかに、貴重な指摘がさりげなくあり、何げなく読み過ぎると、そのまま、こぼれていって、地面に吸われてしまいそうな、もったいなさを感じるのでした。だからといって、どれほどに理解したのか、私はこころもとないのですが。
それはそれとして、付箋をぺたぺたと貼ったのを、はずして、もう図書館に返却しなければいけない頃となりました。う~ん。付箋をはがしながら、このブログにおもうことを書き込んでおこうとおもったわけです。

ということで、これからしばらく、付箋はがしをしながら、引用の書き込みをしてみます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日章旗。

2008-04-08 | Weblog
電磁石というのは、電気が通じている時だけ磁石として機能します。私の興味も、電磁石のようなものだと思う時があります。あっというまに、電流が流れなくなると、興味という磁力が切れる。さしあたり、私のは微弱電磁石。
それでも、身近に砂鉄がついてきます。最近はありがたいことに、ネット上で、簡単に古本が購入できるようになり、吸い寄せられる本の範囲がぐんと広がりました。でもね、私のは、すぐに切れます(笑)。


司馬遼太郎著「街道をゆく 39」の「ニューヨーク散歩」に、角田柳作先生をとりあげた箇所があります。それにつられてドナルド・キーン著「日本との出会い」「日本を理解するまで」「日本文学のなかへ」と、角田先生が出てくる本を読んでみたことがあります。
ここでは司馬さんの「街道をゆく」から、角田先生を引用してみましょう。

「角田柳作先生は、ハドソン川に架かるジョージ・ワシントン橋のほとりにひとり住んでいた。太平洋戦争の開戦とともに抑留され、二、三カ月後に裁判をうけた。『あなたは、あの橋を爆破するつもりだったのか、それともそうではなかったのか』というたぐいの愚問を、裁判官が発したそうである。日本人はなにをするかわからないとおもわれていたのである。小柄な老明治人は、愚問に対し、永年住まわせてくれたアメリカへの義理を感じている旨のことを語った。またアメリカへの責任についても語った。おそらくその英語は、キーン学生がひそかに、〈詩的〉とおもっていた明治風の発音だったろう。裁判官は老人のふしぎなことばと誠意にうたれ、最後に、『あなたは詩人か』と問うたという。・・・戦後、キーンさんは大学にもどって、ふたたび角田先生の講義をきいた。」

ここで、話をかえます。
山村修著「〈狐〉が選んだ入門書」に窪田空穂「現代文の鑑賞と批評」が紹介されておりました。これちょっと古本でも手に入らないので、図書館から窪田空穂全集第11巻をかりてきて読んだというわけです。その箇所も大変に参考になったのですが、この第11巻のほかの箇所が、私にはもっと興味深かったのです(まだ読んでいるところなのですが)。そこに佐々木指月(しげつ)という人が取り上げられておりました。

さてっと。
角田柳作は、明治10(1877)年生まれ。
窪田空穂も、明治10年生まれ。
佐々木指月は、明治15年生まれ。

角田柳作は、明治の東京専門学校(早稲田大学の前身)の出身だった。在学中、坪内逍遥の講義をきいた。と司馬さんは書いております。
早稲田大学といえば、窪田空穂はこう書いておりました「私は晩学の者で、再び学生生活をしようと思ひ立つた時はすでに数へ年二十四になつてゐた。学んだ所は私学早稲田で、早稲田大学と改称する一年前で、現在とは較ぶべきもない微力な時代であつた。中小教員の資格を得て学校は出たが、府下の中小学校では、特別の関係でもない限り、私学出の私などを雇はうとするところはなかつた・・・」(全集第11巻・p161)ちなみに、窪田空穂全集第11巻の、近代作家論は坪内逍遥からはじまっております。

その時代に窪田空穂は佐々木指月と会っておりました。
さて、窪田の文に、戦争中の佐々木の消息を書いた箇所がありました。

「私は久松潜一氏の筆になる一文を読んでゆくと、その中に佐々木指月の名を発見した。その文章の前後の関係から、彼の名がそこに現れた理由も経路も知ることを得た。アメリカ政府は、日本と戦争状態に入ると共に、かの地にいる日本人の全部をもれなく調査し、その一人一人を対象として、アメリカ政府に対して忠誠を誓うか否かを糾明した。その方法は、単に口頭だけのものではなく、日本の国旗を目標として発砲させたのである。佐々木指月も糾明されるうちにいた一人であった。彼は発砲目標となっている日章旗を目にしての糾明の場に立たされると、頑として査問をこばんだ。こばむことは敵意を抱いていることで、同時に捕虜とされることである。指月は鉄条網で囲んだ内の、監視兵の立っている営舎に移されたのである。」(全集11巻。p237)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

4月8日は。

2008-04-07 | Weblog
「4月8日は、花祭りである。」
と司馬遼太郎著「風塵抄」にでてくるのでした。
そこをちょっと引用してみます。

「仏教の始祖であるお釈迦さんの誕生日を祝う行事で、とりどりの花でかざった小さな御堂(花御堂)に誕生仏を安置し、甘茶を灌(そそ)ぎかける。そういうところから、潅仏会(かんぶつえ)ともいい、また仏生会(ぶつしょうえ)ともよばれた。タイなどでは、さかんに祝われるのである。日本はふしぎな国で、キリスト誕生(クリスマス)については世間がにぎわうが、釈迦がうまれた日についての関心はうすい。花祭ということばさえ知らないこどもが多いのではないか。」

以上は風塵抄の「花祭」と題した文にあります。
その文の最後は「以上、花にちなみ・・・さらには日本思想史にとって重要な釈迦の花祭を前にして。  1990(平成2)年4月3日」

これについて、私に思い浮んでくるのは、司馬遼太郎著「街道をゆく 39」の「ニューヨーク散歩」でした。ドナルド・キーン教授や角田柳作先生と題された文が並んでいるので読んだのでした。その本の最後に「さまざまな人達」という文があります。「・・・ハロウィーンで、日本の少年が、殺された。被害者はルイジアナ州の田舎の高校に、名古屋の県立旭丘高校から留学していた服部剛丈(よしひろ)君(16)で、お勉強ずきであかるくてアメリカが大好きな少年だった。その夜、アメリカ人の友達に案内され、ハロウィーンのパーティ会場(知人宅)へ向かっていて、たまたま番地の似た別の家の庭に入った。二人ともべつに、異様なかっこうはしていなかった。その家の当主のピアーズという三十歳の男が、普通の市民があまりもたない大口径の拳銃をかまえ、やくざか警官しかつかわないことばで、動くな(フリーズ)と叫んだ。それでもなお剛丈君はあふれるような善意でもって近づいた。そのとたんピアーズは、少年の心臓を一発でうちぬいた。アメリカの憲法は市民の銃砲の所持をみとめているし、ルイジアナ州の州法は『侵入者を撃ち殺してもいい』としている。ピアーズの行為はそういう法知識があってのことである。つまり、ピアーズは法としての合衆国そのものだといえる。」

そして、司馬さんは最後に、その続きを書いておりました。

「が、もっとも悲しみの深かった剛丈君の父服部政一氏は、母親の美恵子さんとともに、べつな表現をとった。政一氏は、名古屋在住の機械技師である。この夫婦は、『アメリカの家庭から銃の撤去を求める請願書』を書き、ひろく署名を求めた。ピアーズへの憎悪を、みごとな理性に変えたといっていい。八十万人の署名を得てアマコスト駐日大使に手わたしたのは、世界の未来についてのどういう思想よりも思想的であった。人間へのさまざまな思いとともに、ニューヨーク散歩を終える。」

学校ではとりあげられない花祭と、小学校でも英語の授業で取り上げられるハロウィーンと。「4月8日は、花祭りである。」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

活火山富士。

2008-04-04 | Weblog
4月1日は快晴。雲ひとつない青空。自動車で館山の農道を通ると、前に富士山がきれいに見えたのでした。前日の夜が寒かったと思ったら、富士の裾までたっぷりと白くなっておりました。今日は消防団の辞令交付式ということ。震災と富士ということで、思い浮かんだことを書いておきます。

万葉集によく知られた富士の歌がありますね。

   田子の浦ゆ打ち出て見れば真白にそ 富士の高嶺に雪は降りける

という、山部赤人の歌。この前にも言葉がありまして、そこにはこうあります。

「天地の 分かれし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 富士の高嶺を 天の原 振り放(さ)け見れば 渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくそ 雪は降りける 語りつぎ 言ひつぎ行かむ 富士の高嶺は」

さて講談社文庫「万葉集一」中西進を見てみると、この山部赤人の歌の次に高橋虫麿(たかはしのむしまろ)の歌が並んでおります。

そこで歌われているのが噴火の火柱の状況が語られているようなのです。ということで引用。

「不尽の高嶺は 天雲も い行きはばかり 飛ぶ鳥も 飛びも上(のぼ)らず 燃ゆる火を 雪もち消ち 降る雪を 火もち消ちつつ 言ひもえず 名づけも知らず 霊(くす)しくも います神かも ・・・・」



ちょうど、桜島が煙をはいて、鹿児島市街に灰が降るように、その昔「渡る日の 影も隠たひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり」というのと「燃える火を 雪もち消ち 降る雪を 火もち消ちつつ 言ひもえず 名づけも知らず」という富士の燃えさかる火柱と雪とのコントラスト。いつの日にか、私たちはそれを見ることになるのかもしれません。活火山活動の富士に降る雪を。 

参考書 山折哲雄著「悲しみの精神史」(php研究所)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする