和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

選択肢はイロハ。

2016-09-08 | 道しるべ
古橋信孝・森朝男「万葉集百歌」(青灯社)の
印象が鮮やかだったので、
ネット古本検索をすると、
古橋信孝・森朝男「残したい日本語」(青灯社)がある。
気になるので注文。
うん。こちらも面白そう。
ちょっと引用してみます。

「私も大学に就職して作った試験問題の
選択肢はアイウエオであった。ところが、
現在の職場である武蔵大学に移っても、
試験問題を作らされることになったが、
選択肢はなんとイロハニホであった。
私がアイウエオでもいいような気がするというと、
私より十歳上の近代文学の教員が
どちらでもいいのだったら、
イロハでもいいのではないか、
どこも一律にアイウである必要はない、
イロハは古くからの文化で愛着があると
いうようなことをいった。
私はすぐに納得し、二十年近くそのままだった。
ところが、五、六年前、最近の大学らしく、
入試委員会から、選択肢はアイウエオにするように
というお達しがあり、誰も抵抗せず、
責任者がその意向を受け入れる態度だったので、
私も何もいわず、とうとうアイウエオになった。
大学は上からのお達しを教員が唯々諾々と従う
方向になっている。そして、現在私は
教授会に出る権利も義務もなくなって、
授業だけ担当していればよい身分になっている。(古橋)」
(p167)

この「残したい日本語」のあとがきで
古橋氏はこうも書いておりました。

「批評を目的とした本ではないので、
だいぶ感情移入をした文体になった。
そういう文体で書くのもそれなりにおもしろい。」


はい。この本は感情移入の言葉を
拾ってゆく楽しみがあるんです(笑)。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

手のとどかないもどかしさ。

2016-09-04 | 詩歌
古本で
古橋信孝・森朝男著「万葉首百歌」(青灯社)を
買う。これが大当たり(笑)。

パラパラとひらくほどに、
興味が増します。
うん。そのいちいちを上げるのはやめて、
ここでは、その前書と後書とを引用
して紹介にかえることにします。
「はじめに」は、
こんな言葉からはじまっておりました。

「日本には優れた詩歌がたくさんある。
近代の詩・短歌・俳句にも良いものが多いが、
古典の和歌・俳諧にもたくさんの名歌・名句がある。
それらについて少し深く知ってみたいと思う人は多いだろう。
万葉集は明治以降、最もよく詠まれてきた和歌の集である。
・・・現代の研究成果を踏まえた万葉集の読みのダイジェスト
が欲しい。そう思っている人々も多いだろう。
万葉集は1200年も前に編纂された歌集である。
集められた歌は七世紀のはじめから八世紀中頃までの、
和歌という形式が成立して歩みはじめる頃の歌であるから、
その時代が文学史上どんな時代であったかを知った上で
読まないといけない。いきなり近現代の詩歌と同じように
鑑賞しても、どこかいまひとつ本当のところに手のとどかない
もどかしさが残る。その手のとどかないところに
日本文学を特色づける非常におもしろい、重大な問題が
隠されている。近年、そうした点についての研究も
著しく進んで、新しいことが分かってきた。・・・」

「あとがき」は、こうはじまっておりました。

「青灯社の辻一三さんから、
池田弥三郎と山本健吉が『萬葉百歌』という本を出している。
万葉集から百首選び、その一首一首を二人で論評していく本で、
とてもおもしろい、現在までの研究経過をふまえて、
新たにそういう本を作らないかという話を持ち込まれて、
すぐに思いついたのが森朝男さんである。
森さんとのつき合いは三十年近くになるが、
その誠実な人柄と万葉集への情熱と鑑賞力、批評意識に
信頼を感じてきている。それでいて、私とずいぶん違う。
二人の感じ方、読み方などが重なれば
とてもおもしろはずだと確信に近い想いを抱いた。・・・」

うん。読めてよかった。
そういう、充実感を味わえました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

治療をもたらさないような分析。

2016-09-01 | 書評欄拝見
雑誌「正論」10月号をひらく。
ほんの数頁しか読まないのに、
月刊雑誌を購入するゼイタク。


今回はじめて気づたのですが、
江崎道朗氏が「SEIRON時評」を連載してる。
そこに、以前の号での読甲斐のあるページを
紹介しておりました。ありがたい。
そうなのか。ここを読めばいいんだ。
さいわい、古い雑誌も本棚に並べはじめたし。

今回読んだ数頁は、
長谷川三千子氏の文でした。
その文で柄谷行人著「憲法の無意識」を
俎上にのせて、鋭利な解説をしております。

柄谷行人著「憲法の無意識」(岩波新書)
を引用している箇所を引用。

「憲法九条が執拗に残ってきたのは、
それを人々が意識的に守ってきたからでは
ありません」と氏は言ひます。
「九条はむしろ『無意識』の問題なのです。」
そして、「無意識は、意識とは異なり、
説得や宣伝によって操作することができない」
のだと氏は語る。これは厄介なことになつて
きました。もしそれが本当だとすれば、
そもそも憲法議論などといふことが
なり立たなくなつてしまふからです。

すこし端折って、

 実際、柄谷氏自身も、
十四年前の著作「日本精神分析」のなかでは、
はつきりとかう言ひ切つてゐたのですーー
『精神分析は治療を目標とするのであって、
治療をもたらさないような分析は意味がありません』。
だとすれば当然、
この『憲法の無意識』においても、
柄谷氏は、いつたいどうすれば日本人の
『強迫神経症』ーー憲法九条を守れ!といふ
かたちであらはれてゐる神経症ーーを
治すことができるのか、その道筋を示して
くれるはずです。
ところが、いくら読んでも、
ここには『治療』へも道筋が示されてゐない。
それどころか、まるで、これを治そうなどと
考へるのは非国民であると言はんばかりの口調で、
柄谷氏はかう繰り返すのですーー
『憲法九条は、日本人の集団的な超自我であり、
『文化』です』。さらには、
『子供は親の背中を見て育つといいますが、
文化もそのようなものです』などといふ言葉まで
とび出します。かつて、日本文化そのものを、
治療すべき精神疾患ととらへて、
そこからの『治療』を説いた、
『日本精神分析』の頃の柄谷氏とは、
別人のごとくです。

ここまで、引用すれば
あとは長谷川氏の文の最後を引用して
終わりにします。
うん。読めてよかった。

 この本を通読して気付くのは、
これだけ憲法九条について多くの言葉を
費してゐるのに、その条文そのものが
どこにも見あたらない、といふことです。
つまりこの患者さんは、
九条二項の条文を読んでしまつたら、
占領軍による強制の魔術がほどけてしまひ、
自分の『道徳的マゾヒズム』の原動力が
なくなつてしまふことを知つてゐるのです。
 解散したてのシールズの皆さんも、
見当はづれのパフォーマンスに精を出すかはりに、
日本国憲法第九条の条文をしっかり読んで、
治療と再生の道を歩んで下さいね!


はい。この書評を読んだら、
長谷川三千子著「九条を読もう!」(幻冬舎新書)
を、まずは手元におこうと思いました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする