和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

鰯(いわし)の頭も。

2020-06-02 | 詩歌
う~ん、神道ってなんだろう。
ということで、何となく、思い浮かんだのは
どういう訳か、「鰯の頭も信心から」という諺。

「節分の時に、鰯の頭を柊(ひいらぎ)に刺して
悪鬼払いをする風習があった。この風習を元に
してできたことわざと考えられる。
それを裏付ける資料として、江戸時代のいろはカルタ
の絵札の中に、木の枝に刺した鰯の頭を拝んでいる
男の図柄のものがある。語句から情景が伴いやすいのか、
早くから絵画化されている。・・・・」
(時田正瑞著「岩波ことわざ辞典」)

つぎに思い浮かんだのは、鰯の詩。というか、
この詩を引用したかったのかもしれません(笑)。

  孤独な泳ぎ手    衣更着信

いわしの集団のなかで泳いだことがあります
夏の真さかりの、まだ5センチくらいの小いわしの群れが
浜辺まで近寄って来ることがあるでしょう

近寄っては離れ、固まっては小さく散る
その辺は、小さな雲の影みたいに濃紺色が走るんです
うす緑の、勢いを誇っている海の水にーーー

いたずら心を起して、魚の群れのほうへ泳いでみました
かれらがせいいいっぱい陸に近づいたときに
 ・・・・
この浜で泳いでいるのは、わたしだけでしたから
 ・・・・
意外にも左右にさっと開いて、わたしを群れに
はいらせてくれた、そしてそのあとを閉じるんです
つまりわたしは小いわしの集団の真ん中にいる」

はい。ここまで読むと、実現可能なおとぎ話を
聞くような気になってきます。
はい。この詩はまだつづきます。


「  ・・・・・魚はーー
しかし、さすがです、魚は絶対に人間にさわらせませんよ
わたしの泳ぐスペースを最小限に許しているのに

手を動かすだけは、そのたびに離れるのです
これが魚の技術でしょう、あたりまえのことだが感心してしまう
いくらこちらがスピードをあげてみても、方向を急に

変えてみても、与えられるスペースは最小限です
雲からとはいわぬまでも、燈台のうえから見おろしたら
緑の水に紺の魚群、そのなかで手足を思いきり広げて

泳いでいる黄いろいパンツの人間は楽しい絵ではないか」


うん。夏に私に、ひょっとしたらという夢を抱けるような
そんな大人のおとぎ話みたいにも思えてきます。
ここから、詩はラストの展開をしてゆきます。


「しかし、わたしが思い浮かべていたのはlifeということばでした
泳いでいると妙なことを考える

その真ん中にいるのにさわれないんですよ、lifeはーー
至近距離にあるのに、道を開いて迎え入れ
ときにむこうから近づいて来るのに、さわれないんです、lifeはーー

太陽が激しく輝いていても
潮風がさわやかに吹いていても、これだけ沖へ出て来ても、
沈下海岸に積まれたテトラポッドがかすんで見えるほどになっても

すぐそばを泳ぐ魚に手が届かないように
これだけ歳月を過ごして来ても ・・・・

わたしはもどかしい、わたしはさわれなかった
あれが life なんだ、今こそ悟る
あれが life なんだ」

はい。途中ところどころ端折りましたが、
夏が近づくと、この詩を思い浮かべます。

今年は、『あれがlifeなんだ』というところを
勝手に、『あれが神道なんだ』と思ったりしています。

コメント (2)
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