司馬遼太郎への追悼文では、
多田道太郎氏のものが、あとあとまで印象に残ります。
はい。内容はすっかり忘れてしまったので、読み返す。
題名は「司馬遼太郎の『透きとおったおかしみ』」。
いろいろと内容豊富なのです。
こんかい、あれっと思ったのは、この箇所でした。
それは「街道をゆく」に触れた箇所でした。
「この作品は近江から始まっています。
近江は24巻でもう一遍出てくるんですが、
芭蕉の『行春を近江の人とおしみける』は
近江でないといけないと言うんです。
例えば京都ではいけない。春風駘蕩として、そのような
やわらかいところに溶け込んでいける水があり森がある。
そういう風景と文化と思想の一体感を持つことができるのは
近江だと。司馬さんはお正月になるたびに客を避けて
京都のホテルへ泊まって、二、三日したら必ず近江へ行ったそうですが、
それは、その風景を見るということなんです。
彼はすべて、人なり思想なりを風景の中に置いて眺めて、
その中で何かを感じ取るということをやってきた。」
(p162・「レクイエム司馬遼太郎」講談社1996年)
とりあえず、司馬さんはお正月は京都に泊った。
というのが、わかりました(笑)。
この多田道太郎さんの追悼文には、
こんな箇所もありました。
「何かの名誉を受けられたとき、彼の車にたまたま同乗させて
もらったら、こんなことがありました。梅田駅まで行く途中で
風景も覚えているんですが、『司馬さん、このたびはおめでとう』
と言ったら『いやいや、ありがとう。ありがとう。だけど・・・・』。
その後が非常に印象的なんです。手の平を出して、
『この上に一粒か二粒ぐらいの塩みたいなものがある。
これがなくなったときは大体もう人間として、
あるいは芸術家として、しまいや』と。その自覚のある人でした。」
(p158~159)
最近思い出して本棚から取り出した本に
司馬遼太郎・福島靖夫往復手紙
「もうひとつの『風塵抄』」(中央公論新社2000年)がありました。
そこに、司馬さんが福島さんへの手紙で書いているのでした。
「・・・・作家というものは、作品の第一頁に名が印刷されますから、
算術的に知名度が高くなります。しかし当人はあくまで
三条大橋の橋下にいる存在だということを、
つねに忘れてはならないものなのです。
それを忘れると、胸中かすかな冰(氷)心が消えます。
一片の冰心が、物を書かせているのです。
才能が書かせているわけでもなく、あるかないかの
学識・経験が書かせているわけでもありません。
耿々(こうこう)一片冰心のみ。
(しかしなんと溶けやすく消えやすいものか。)
橋上には、晴れ着で着飾った人々が歩いています。
心理的にはその仲間に入ってはならないのです。
算術的に得た虚名を、実の名声だと思い、
『かの有名な小生は』と、その虚名の上にのっかって
物をいいはじめてはしまいなのです。小生は、30年、
自分で自分の虚名を利用したことはありませんでした。
だから他も利用するな、ということで生きてきました。」
(p196~197)
多田道太郎さんの追悼文に出てきた「手の平」と、
同じような内容なんだろうなあと、思うのですが、
福島さんの手紙には、どういうわけなのか、
「三条大橋」が登場するのでした。
うん。この手紙の方が印象がわかりやすい。
どうも細部が気になります(笑)。