和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

庭の祠(ほこら)。

2020-06-20 | 地域
司馬遼太郎著「この国のかたち 二」(文芸春秋)を
本棚からだしてくる。
ちなみに、「風塵抄」は、司馬さんが産経新聞に連載し、
「この国のかたち」は、雑誌文藝春秋の巻頭随筆として、
書きつづけられたものでした。

さて、「この国のかたち 二」に
「ポンぺの神社」と題した文があります。
はじまりは、
「周防三田尻(山口県周府市)の人、荒瀬進氏のことである。
・・・・・私が四国の善通寺に行ったとき、そこの国立病院の
名誉院長だったこの人にはじめて会った。
『私の生家の庭に、ポンぺ神社という祠(ほこら)がありまして』
といわれた話は、わすれがたい。
幼少のころ、荒瀬さんは、毎朝庭に出てその祠をおがまされた。
あるとき祖母君に問うと、
『ポンぺ先生をお祀りしてある』という。
オランダ人、ポンぺ・ファン・メールデルフォールドのことである。
ポンぺは、江戸幕府がヨーロッパから正式に招聘した
最初にして最後の医学教官だった。
安政4(1857年)、28歳の若さで長崎に上陸し、・・・
日本の学生に体系的に医学を教授した。
日本で最初の西洋式病院をつくりもした。
滞日わずか5年・・・・・
かれは、ユトレヒト大学で医学を学んだが、
たしか速成コースだったはずである。
・・・べつに大学者というような人ではない。
かれの長崎における偉業は、医学(基礎医学をふくむ)の
各科を一人で教えただけでなく、化学や物理といった
関連課目まで教えたことにある。・・・・・
さらには病院で患者を見、学生にカルテをとらせ、
あわせて実地の診療術も教えた。休息というものが
ほとんどなかったにちがいない。
ポンぺ門人帳を繰ってみると、
   三田尻 荒瀬幾造
とあるのが、荒瀬進氏の祖父君であるかと思える。


・・・・・・惜しくも幾造は、早世した。
ただ、帰国してめとった妻に、ポンぺ先生の人柄と学問が
いかにすばらしかったかということをこまごまと語った。
それだけでなく、ポンぺ先生の恩は忘れられないとして、
庭に一祠をたてて朝夕拝んでいたのである。
 ・・・・・・
その祠にはつぎのような〈神話〉までついている。
『若い未亡人になった祖母が、私が小さいとき、
膝の上に抱いては、くりかえし亡夫からきいたポンぺ先生の
話をしたんです。私にとって、桃太郎や青い鳥のはなしが、
ポンぺ先生でした』
と、荒瀬進氏が語った。
唐突だが、右(注:上)の祠に対する未亡人や
その孫の感情と儀礼こそ、古来、神道とよばれる
ものの一形態ではないか。


   ・・・・・・・・・
民間人である三田尻の若い蘭方医荒瀬幾造の心は、
まことに大らかで無垢というべきだった。
・・・・かれはただポンぺを敬するあまり、
カミとしてまつったのである。古神道の一形態とは、
こんなものだったかもしれない。

むろん、このことは、
なまのポンぺご当人の知るところではなかった。
なま身のポンぺその人はその後、オランダで
牡蠣の養殖に失敗したり、赤十字事業に熱中したりして、
1908年、79歳で没した。
かれは、クリスチャンでもあった。
もし三田尻のことを知れば、目をまるくしたにちがいない。」

はい。途中を端折って、最初と最後とを引用しました。
この短文のなかで、司馬さんは、このことに感じ入って
『胡蝶の夢』という作品を書かれた。とあります。

うん。私は、この短文だけで、もう満腹でした。
それで『胡蝶の夢』はいまだに読んでおりません(笑)。
どなたか、読まれましたか?
コメント
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