和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

3冊

2024-04-13 | 三題噺
① 「編集者 齋藤十一」(冬花社・2006年)
② 竹中郁少年詩集「子ども闘牛士」(理論社・1984年)
③ 「竹中郁詩集」(思潮社・現代詩文庫・1994年)

① せっかく、「編集者 齋藤十一」をひらいたので、
あらためて、パラパラめくりをしてみる。
この本は、追悼文集なので、さまざまな方の文があります。
石井昴氏の文に「次から次に熱い思いを我々若輩にかけられた。」とあります。
どんな言葉の断片だったのか?

『 俺は毎日新しい雑誌の目次を考えているんだ 』(p182)

そういえば、奥さんの齋藤美和さんの談話に

「 何か事件が起きるたびに、
 『 こういう切り口だったら読みたくなるね 』
  などと、言いつづけていました。 」 (p283)

その美和さんの談話に、写真週刊誌ブームのことが出て来ます。

「 昭和56年(1981)10月23日、日本初の写真週刊誌
 『 FOCUS 』が創刊されました。・・・・

  そして『FOCUS』は大ヒット。・・・
 『 これまでで一番の仕事だったなあ 』と本当に嬉しそうでした。

 ただ、それからしばらくして、誌面が齋藤の思っていたのとは
 別の方向へずれていったようです。
 もちろん雑誌は生き物です。
 後発のライバル誌が芸能スキャンダルに力を入れて
 部数を伸ばせばそちらもケアしなければならなかったでしょうし・・。
 晩年、ちょっとこぼしていましたね。

『 よい素質を持った雑誌だったのに、残念だ。
  もうちょっとタッチして、雑誌の方向性を
  しっかり根付かせておけばよかった。  』  」(p281~282)

そのあとに、何だろう、こんなことがでてきておりました。

「 ・・やっぱり教育だよ。教育というのは
  一度駄目になると元に戻すのに百年かかる。 」(p283)


② 竹中郁少年詩集「子ども闘牛士」の目次をひらいたら、
  この詩集にも「三いろの星 組詩のこころみ」が入っていました。
  はい。この詩集でも詩「地上の星」を読むことができます。

 この詩集の最後には足立巻一の「竹中先生について」があります。
 そのはじまりを引用。

「竹中郁(たけなかいく)先生は、1982年3月7日、77歳でなくなられました。
 この詩集は、先生が日本の少年少女に贈り遺された、ただ一冊の詩集です。

 なくなられる10年ほど前、竹中先生はこの詩集の原稿を作っていられました。
 これまでに書いた詩のなかで、特に少年少女に読んでほしい作品ばかり
 を選び、むつかしい文字やことばは子どもでもわかるように書きなおし
 ていられました。・・・」


③ 現代詩文庫1044「竹中郁詩集」には、竹中氏の短文も掲載されてます。
  そこに「坂本遼 たんぽぽの詩人」がありました。そこからも引用。

 「 『 きりん 』に集まってくる小学生の詩と作文は、
   詩は私(竹中郁)が、作文は坂本君がと手分けして選ぶのだが、

   各々が3日くらいかかって選んだ。
   坂本君はそのために高価な大きな皮カバンを買って、
   5キロくらいの重さの原稿をもち歩いていた。
   日本の子供のためなら、死んでもいいという気概をかんじた。
  『 きりん 』はいろいろな人の助力で200号を越える長命をした。 」
                              (p123) 
  



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竹中郁の詩と『 地上の星 』

2024-04-12 | 詩歌
NHK新プロジェクトX。録画して初回を観ました。

あたまライト・尾っぽライト。
じゃなかった、中島みゆきのヘッドライトテールライト。
その歌詞は『 語り継ぐ人もなく 』とはじまってます。

『語り草』も60~70年をめどに、曖昧となり忘れらてゆくそうです。
ということで、関東大震災も、百年過ぎました。
新関東大震災の方が、やけに身近に感じられる。

ここでは中島みゆき『地上の星』と、
竹中郁『詩集 そのほか』との比較。

竹中郁は、戦後の月刊児童詩誌『きりん』を刊行しつづけておりました。
足立巻一は、それを指摘してこう書いております。

「 子どもの詩を読むことが自分の詩を作るよりも
  しあわせだったといわれます。戦後30数年間・・・・

  先生は第8詩集を『そのほか』と題されました。
  子どもの詩を読むことが第一で、自作の詩は余分の
  ことだという考えから名づけられたのです。・・・  」

     ( p163 竹中郁少年詩集『子ども闘牛士』理論社 )

この『詩集 そのほか』(1968年)を今回とりあげます。
その詩集のなかに、『地上の星』と題する詩があります。

この詩集のはじまりは、詩『考える石』でした。
その詩の最後の数行を引用してからはじめます。

「  點(つ)きにくいマッチをすって
   きみに近ずける
   きみの石英質は 長石は 雲母は
   かがやいた まばたいた そしてもの云いたそうだった 」

二番目の詩は「見えない顔」。戦後のラジオの
『尋ね人』の時間をとりあげた詩でした。その最後の2行。

「 ラジオの『 尋ね人 』の時間のなかの
  あの 見えない顔 顔 見えない顔   」

この詩集の三番目の詩はというと
『 三いろの星  組詩のこころみ 』となっており、
はじめが『 押入れのなかの星 』
二番目が『 地上の星 』
さいごが『 夜の星 』でした。

うん。竹中郁の詩『地上の星』を引用したいのですが、
それは最後引用するとして、その前に詩集のなかにある詩『別世界』。
ここには、『つばめ』が出てくるのでした。
ここには、断片的に引用しておきます。

  ゆきずりの郵便局の窓口で
  はがきを求める

  ・・・・・
  さて どこといって差出す目当もない
  それなのに はがきに書く
  佇ったまま 手当たり次第の台にもたれて

  『 つばめになれ 鳩になれ 』と
  ・・・・・
  ただ なんとなしに書く

  俗事にかまけたおれの躰から
  俗事一ぱいのおれの脳みそから 
  ・・・・・・

  ポトリと落しこんだ投函口の奥は暗いが
  そこは果しのない大宇宙
  そこには行ってみたい星もある


はい。最後になりましたが竹中郁の詩『 地上の星 』の全文。

     地上の星    竹中郁

  こちらで振る
  踏切番の白いランプ
  あちらで答える
  もう一つの小さな白いランプ
  どしゃぶりの雨のなか
  話しあっているようだ
  うなずきあっているようだ
  やがて来る夜更けの電車を
  夜更けて帰りの人人のいのちを
  いのっているようだ

  ね ここに一人のぼくがいるよ
  雨とくらやみとにまぎれて
  それとなく見つめているぼくだよ
  ぼくも振っているんだよ
  ランプの話しあいに加っているんだよ
  ランプのいのりに加っているんだよ
  黒い蝙蝠傘を
  大きく大きく打ち振っているんだよ
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谷内六郎の房総。

2024-04-11 | 安房
谷内六郎といえば、わたしには、
週刊新潮の創刊号からの表紙絵が思い浮かびます。

カタログ「誕生80年記念 絵の詩人 谷内六郎の世界」2001年を
ひらいていると、海の絵がさまざまに登場していることに
あらてめて気づかされます。

さてっと、ここには『表紙の言葉』を引用。
創刊号の絵には、絵の中に言葉があります。

『 上總の町は 貨車の列 火の見の髙さに 海がある 』

表紙絵ばかりが有名で、ご自身が書いていた
『表紙の言葉』を、ついぞ読んだことがありませんでした。
この創刊号の『表紙の言葉』の全文を引用してみます。

「 乳色の夜明け、どろどろどろりん海鳴りは低音、鶏はソプラノ、
  雨戸のふし穴がレンズになって丸八の土蔵がさかさにうつる幻燈。

  兄ちゃん浜いぐべ、早よう起きねえと、地曳におぐれるよ、
  上総(かずさ)の海に陽が昇ると、町には海藻の匂がひろがって、

  タバコ屋の婆さまが、不景気でおいねえこったなあと言いました。

                   房州御宿にて    」
                      ( p62 カタログより )

鯨の姿をグランドピアノにたとえた絵がありましたので、
その『表紙の言葉』も引用してみます。


「 学芸会で先生がひいてくれたピアノは、
  『 青い月夜の浜辺には 』浜千鳥の曲です、
  音が月の光といっしょに波の面からだんだん
  海底に向って幕のようにさがって行くと

  先生もピアノも生徒もさがって行って海底につきました、
  先生は鯨のおなかをピアノのかわりにしているのです。

  鯨は先生がおなかをアンマしてくれてるのだと思って
  静かに眼をほそめていると、どうもアンマにしては
  たたきかたが変だぞと思って、

  いきなり大声で杖をおもちですか!! とどなりました。

  駅員の人がパスおもちですかというのに似ていたので、
  先生はびっくりして、いきなり運動会のピリピリの笛を
  ピーッと鳴らしたので、

  鯨は安心してこうつぶやきました
  『 やっぱり専門のアンマさんだ 』      」

        ( p 64  「青い曲 1956年」 カタログより )


カタログをパラパラとめくっていると、牛も登場しておりました。
カタログにある、谷内六郎の年譜のはじまりにはこうありました。

「1921(大正10)年 0歳
    父久松と母しげとの間に、12月2日、
    渋谷・伊達町で生まれる。9人兄弟の六男。

    当時、父は東京高等獣医学校の寄宿舎を恵比寿で経営。
    理想主義的な思想の持ち主で、リベラルな性格。
    ・・・鈴木農牧場でかつては主任を務め・・・   」(p160)


絵と文谷内六郎の「わが幼年時代」から、牛が登場する場面を引用。

「 (五) 乳牛の白と黒のまだらを見て
     ぼくは世界地図に見たてておりました。

  (六) 母はよく乳をしぼっていました。
     そんな姿が乳色のユリカゴのように
     よみがえって来るのです。        」(p137)


さて、谷内六郎が週刊新潮の表紙絵を担当するに際しての
きっかけは、ここいらあたりかなという箇所がありました。

「編集者 齋藤十一」(齋藤美和=編 2006年・冬花社)の
最後の方に、「齋藤美和・談」という談話が活字になっておりました。
そこから引用。

「私は『週刊新潮』の創刊準備室で、表紙に関することを担当していました。
 どのような表紙にするか、試行錯誤がつづきました。

 編集長の佐藤亮一さんから
『 出版社から初めての週刊誌だから作家の顔で 』と言われて、
 作家の写真を表紙の大きさに焼いてみたりしたのですが、

 いくら立派な顔であっても、しょせんは
≪ おじさん、おばさんのアップ ≫で、あまり面白くない。

『 やっぱり絵にしよう 』と、そのころ若手から
 中堅の位置にあった高山辰雄さんや東山魁夷さんなどに
 描いていただこうと考えたのですが、これもなかなかうまくいかない。

 そんなとき齋藤(十一)が
『 こんな人がいるよ。研究してみる価値はあるんじゃないか 』
 と教えてくれたのが、おりしも第一回文藝春秋漫画賞を
 受賞したばかりの谷内六郎さんでした。

 『週刊新潮』の誌面には、一癖も二癖もある連載が並んでいました。
 ・・・・          」( p280~281)

この齋藤美和さんの談話に、家出の話がありました。
房総に関連なので最後にそこも引用しておくことに。

「結局、齋藤は早稲田第一高等学院から早稲田大学の理工学部へ進みました。
 理系に進んだのは、ガス会社に勤めていた父親が理系だったことも少し
 影響していたのかもしれません。
 
 大学で仲良くなった同級生に、白井重誠さんという方がいました。
 月刊少女雑誌『ひまわり』の編集部を経て、『芸術新潮』の嘱託になられた
 方ですが、その白井さんが、授業中に隣の席で文庫本を読みふけっていて、
 余りに夢中になっている姿を見て、齋藤が声をかけたのだそうです。

 ・・・・・・
 そのうちに、大学生活よりも本を読む方が楽しくなってきた齋藤は、
 どこか空気のいいところで本をじっくりと読みたくなったそうです。
 ・・・・・・
 お父さんの月給袋をちょっと拝借して、家出をしてしまいました。

 目的地は千葉。齋藤は子供のころ、夏になると一家で
 内房の保田にある農家の離れで過ごしていましたから、
 土地勘があったのです。

 中学生のころには保田から外房の鴨川まで
 下駄で歩き通したこともあって、その途中の
 吉尾村(現・鴨川市吉尾平塚)という集落が
 心に残っており、あそこに行きたいと考えたそうです。

 結局、齋藤はこの吉尾村のお寺の客間を紹介されて
 ほぼ一年の間、昼間は近所のお百姓の畑仕事の手伝い、
 夜は好きなだけ本を読んで過ごしました。・・・・    」
                        ( p272~273 )

 
 

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房総と『老人の僕』

2024-04-09 | 安房
大正元年に夏目漱石は、坂本繁二郎の絵「うすれ日」を展覧会で観ます。

大正5年(1916)12月に、漱石は死去されております。
大正5年の漱石というと、芥川龍之介らに送った手紙がありました。
2月19日の漱石からの手紙は、雑誌で龍之介の作品を読んだとあります。

「・・あなたのものは大変面白いと思ひます
 落着があって巫山戲てゐなくって自然其儘の可笑味が
 おっとり出てゐる所に上品な趣があります
 夫から材料が非常に新らしいのが眼につきます
 文章が要領を得て能く整ってゐます敬服しました。

 ああいふものを是から二三十並べて御覧なさい・・・
 然し『鼻』丈では恐らく多数の人の眼に触れないでせう
 触れてもみんなが黙過するでせうそんな事に頓着しないで
 ずんずん御進みなさい
 群衆は眼中に置かない方が身體の薬です。・・・ 」


そして、8月21日には、芥川龍之介・久米正雄が
千葉県一ノ宮から葉書をよこしたのに対して返事を書いております。
そのなかに、『牛』が出てきておりました。
はじまりは

「あなたがたから端書がきたから奮発して此手紙を上げます。
 僕は不相変『明暗』を午前中書いてゐます。・・・・」

とあります。後半にこんな箇所がありました。

「・・・何か書きますか。・・・・
 然し無暗にあせっては不可ません。
 ただ牛のやうに図々しく進んで行くのが大事です。・・・」

8月24日には、つづけて手紙を書いておりました。
そのはじまりは

「 此手紙をもう一本君等に上げます。
  君等の手紙があまりに溌溂としてゐるので、
  無精の僕ももう一度君等に向って何か云ひたくなったのです。
  云はば君等の若々しい青春の気が、老人の僕を若返らせたのです。 」

『 若返らせた 』といえば、漱石の青春時代へ思いを馳せることに。

高島俊男著「漱石の夏やすみ房総紀行『木屑録』」(ちくま文庫)があります。ここには、高島俊男氏の「はじめに」を引用。

「 『木屑録(ぼくせつろく)』は、夏目漱石が、
  明治22年、23歳のときにつくった漢文紀行である。
  漱石は第一高等中学校の生徒であった。
  このとしの夏やすみを、漱石は旅行ですごした。・・・」

「 ・・・8月7日から、友人4人とともに房総旅行にでかけた。
  東京にかえったのは月末の30日である。
  この房総旅行の見聞をしるしたのが木屑録である。

  ・・・木屑録は同級生の正岡子規に見せるためにつくったものであるが、
  その子規はこのとし5月に喀血し、7月はじめに学年試験がおわるとすぐ
  郷里松山へかえって静養していた。・・・・
  子規はこれをつぶさによみ、批評をつけて漱石にかえした。・・  」


今回の最後は、大正5年8月24日に芥川・久米に出した手紙、
その終りの箇所を引用しておきたいと思います。

「・・・・牛になる事はどうしても必要です。
 吾々はとかく馬になりたがるが、牛には中々なり切れないです。
 
 僕のやうな老猾なものでも、只今牛と馬と
 つがって孕める事ある相の子位な程度のものです。

 あせっては不可せん。頭を悪くしては不可せん。

根気づくでお出でなさい。世の中は根気の前に頭を下げる事を知ってゐますが
火花の前には一瞬の記憶しか與へて呉れません。・・・・

決して相手を拵らへてそれを押しちゃ不可せん。
相手はいくらでも後から後からと出て来ます。

さうして吾々を悩ませます。
牛は超然として押して行くのです。
何を押すかと聞くなら申します。
人間を押すのです。文士を押すのではありません。

 是から湯に入ります。

      8月24日          夏目金之助

    芥川龍之介様
    久米 正雄様                  」




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房総の青木繁・坂本繁二郎。

2024-04-08 | 安房
「 安房郡の関東大震災 」に関連本として「安房震災誌」を開きながら、
引用ばかりしてると、ついあれこれ他の事を考えてしまうことがあります。
ぷくぷく空気が浮かぶように、直接には関係なさそうなことが浮かびます。

そして、そんな泡の空気を紙風船に詰め、飛ばしてみたくなります。
はい。落ちてきたら何度でも打ち上げたくなる紙風船のようにして。


今回は、安房震災誌に登場していた2つのキーワードからの連想。

   『 海の時代 』 ( p276 「安房震災誌」 )
   『 牛乳の國 』 ( p256 「安房震災誌」 )

この2つの言葉から。震災とは、直接関係がないけど、
私に2つの絵が思い浮かびました。

『 海の時代 』から浮んできたのが、青木繁の絵『 海の幸 』でした。
『 牛乳の國 』から次に浮んだのが、坂本繁二郎の絵『うすれ日』です。

青木繁・坂本繁二郎らが千葉県布良海岸へゆくのが明治37年(1904)でした。
そこで青木繁は「海の幸」を描き9月の白馬会に出品しております。


年表で気になったのが、日露戦争(1904~1905年)でした。
1902年に、青木繁は徴兵検査のため帰郷、近視性乱視のため不合格。
そして、坂本繁二郎も徴兵検査で身長が足りず不合格でした。


明治37年(1904)8月22日に青木繁は、布良海岸から、
福岡県八女郡三河村の友人へと手紙を送っております。
その書き出しを引用してみます。

「 其後ハ御無沙汰失禮候、モー此處に来て一ヶ月余になる、
  この残暑に健康はどうか? 僕は海水浴で黒んぼーだよ、

  定めて君は知って居られるであろうがここは萬葉にある
 『 女良 』だ、すく近所に安房神社といふがある、官幣大社で、
  天豊美命をまつったものだ、何しろ沖は黒潮の流を受けた激しい崎で
  上古に伝はらない人間の歴史の破片が埋められて居たに相違ない、

  漁場として有名な荒っぽい處だ、冬になると四十里も
  五十里も黒潮の流れを切って二月も沖に暮らして漁するそうだよ、

  西の方の浜伝ひの隣りに相の浜といふ處がある、詩的な名でないか、
  其次ハ平砂浦(ヘイザウラ)其次ハ伊藤のハナ、其次ハ洲の崎で
  ここは相州の三浦半島と遥かに対して東京湾の口を扼して居るのだ、
  ・・・・・     」

 ( p107  青木繁「 假象の創造 」中央公論美術出版・昭和58年 )

この手紙は、絵入りで読み応えのある長い文になっておりますが、
ここでは、最初の箇所だけ引用してみました。

とりあえずは、これが『 海の時代 』の絵。
次に思い浮かべるのが『 牛乳の國 』の絵。


坂本繁二郎の牛の絵「 うすれ日 」について。

明治45年7月30日、明治天皇がなくなられました。
大正と改元されたその秋の第6回文展に『うすれ日』が出品されます。
ちなみに、明治44年3月25日に、青木繁は29歳で亡くなっております。

大正元年(1912)坂本繁二郎(30)は房州御宿地方に赴いております。
その年の作品は、『うすれ日』『御宿村の一部』『海藻とりの女』。
次の年の作品は、『魚を持って来た海女』『海草採りの女』『犬のいる風景』。
翌々年の作品は、『人参畑 房州波太漁村』『海岸の牛』『早春』『漁村』。

それでは、坂本繁二郎の『 うすれ日 』はどんな絵なのか。
夏目漱石が新聞に評文を載せておりますので、そこから引用。


「 『 うすれ日 』は小幅である。
  牛が一匹立っているだけである。・・・
 
  この牛は自分の嫌いな黒と白の斑(ぶち)である。
  その傍には松の木か何か見すぼらしいものが一本立っているだけである。

  地面には色の悪い夏草が、しかも漸(やっ)との思いで
  少しばかり生えているだけである。・・・・

  それでもこの絵には奥行きがあるのである。
  そしてその奥行きはおよそ一匹の牛の寂寞として
  野原に立っている態度から出るものである。・・・  」

(p161 谷口治達著「青木繁坂本繁二郎」西日本新聞社・ふくおか人物誌4 )

坂本繁二郎著「私の絵 私のこころ」(日本経済新聞社・昭和44年)
には、はじめの写真入りページにこの絵が載っておりました。
本には坂本繁二郎の文が載っており、そこにこうありました。

「うれしかったのは夏目漱石の評文を新聞で見たことです。
 切り抜きを保存しているのですが・・・

 私は、自分の苦しみがわかってもらえたことで十分でした。
 漱石は人を介して私に会いたいと言われたようです。

 当代一の作家に作品を通じて会っていただけるなど、感激しましたが、
 何か自分がずばり見抜かれた感じで、会うのがこわくて
 ためらううちに機会を逸しました。

 牛は好きな動物です。自然の中に自然のままでおり、
 動物の中でいちばん人間を感じさせません。
 大正時代の私は、まるで牛のように、牛を描き続けたものです。」
                   ( p59~60  同上 )


はい。この紙風船。次回も、もう一度打ち上げてみたいと思います。
  


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大震災と牛乳の国・安房郡②

2024-04-07 | 安房
「大正大震災の回顧と其の復興」上巻から、
牛乳とある箇所を、適宜引用してゆきます。

石野正(安房農学校5年)の文を引用。

「我が瀧田村は、彼の大震災に当り、
 比較的被害少かりし為、青年団、消防団員の大部分は、
 被害甚大なりし北條、那古、船形方面に出動して、
 避難民救助、消防やら、糧食の配給等に寝食を忘れて盡力すること3日間に及んだ。

 特に火災の多かりし船形町には、村民有志より
 多大の米穀と、牛乳と筵類の寄付を募って、避難民を救済し、

 且つ村内数ヶ所に、避難民救養所を設けて、
 糧食( にぎり飯、牛乳、湯茶等 )及び
 宿を無料にて提供して盡力せし青年団、消防団員
 の行為は、感謝すべきものが少なくない。・・・  」(p932)

うん。安房農学校5年・生齋藤進の「その時の牛乳の味」(p800~802)も引用して
みたいのですが、ここでは、そのページにあることを確認して次にゆきます。

「大正大震災の回顧と其の復興」下巻には
瀧田村の記述がありました。そこから引用。

「 本村は震災の範囲其の局部に限られた故、
  罹災民が他に避難する必要なく各自が自己の屋敷内に
  応急の小屋を作りて、其の中に全部避難したので
  一定の場所に収容することはなかった。

  救護本部にては東京横浜地方より徒歩にて
  数日数夜を飢と暑さに疲れ果てた人々に対しては、
  第一に食を給し牛乳を与へ、或は一夜の寝に就かしめ
  歩行不十分のものは荷車で次の村まで送り届けなどした。

  青年団軍人分会其の他村有志より成る本村救護本部にては、
  比較的軽微の本村内の救助は随時之をなし、
  大部分は他町村に出動した。
  ( 北條、那古、船形、館山等 )。
  後に安房郡長より感謝状を贈られた・・・・

  特に筆太に記したきは東京菓子製造株式会社は
  無償にて自己所有の生乳を毎日本村救護本部に対し運送方を依属せられた。

  本部に於ては救護員四五名に荷を輓かしめて之を
  那古船形、北條等に輸送したこと約10日間である。
  酷暑と奮闘しつつ数里を運び行きし其の牛乳は
  罹災民に如何に涙と共に迎へられしか。  」( p210~211 下巻 )


こうして瀧田村は局部に限られた大震災だったのに対して
國府村の被害はどうだったのかも引用。

「全村を通じての総戸数は381にして、その被害は郡の調査表によりて
 その正数を案ずるに、実に百分の94に達してゐる。即ち
  
   全潰 300    半潰  61
   学校全潰 1    役場全潰 1         」( p214 下巻 )

「 本村主要の副業は、畜牛にして生乳の産額は郡内屈指の地である。
  震災の結果交通機関は全く杜絶し、煉乳作業又不能の陥り、
  日々搾取した生乳は、全く販路を失ひ、徒に抛棄するの
  止むなきに至りたること約一ヶ月。・・・     」( p215 下巻 )


北三原村の記述も最後に引用しておくことに

「 工場の被害は全くなし只買入れたる生乳は
  全く使用するを得ずして之を10日間廃棄したり。

  其の間生乳は震災の最も甚だしかりし
  南三原村、北條町の傷病者に3日間無料輸送をなしたるのみ、
  他は全く棄却す・・・    」  ( p289 下巻 )


ちなみに、

「 郡農会は当時郡長を会長とし、職員は大部分
  郡吏員兼務なりしを以て、萬事郡長の指揮により
  その対策に萬全を期したり。
  食糧の配給は専ら郡役所の食糧関係吏員郡農会関係職員にて行ひ、
  大震災翌日余震尚甚しき内に米穀徴発の方法を採り・・・ 」

「 尚傷病者救護の為めに安房郡畜牛畜産組合( 組合長は当時の郡長 )
  をして牛乳の施與を行はしめ其の援助にも当れり。 」( p409 下巻 )


とあったので、なるほど安房郡畜牛畜産組合の
組合長は安房郡長・大橋高四郎だったとわかり、
その指揮の下で行動していたことがわかります。


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大震災と牛乳の国・安房郡。

2024-04-06 | 安房
「海の時代」から「安房は牛乳の国」へと視点を移します。
関東大震災の際に、安房郡では牛乳がどうなっていたのか。

「食料品は一般に欠乏してゐたが、傷病者と飢餓に泣く乳児とは、
 何とか始末せねばならなかった。

 殊に震災の恐怖で急に乳のとまった母が、飢に泣く乳児を抱いて、
 共泣きしてゐるさまなど見て・・・

 幸い安房は牛乳の國である。
 郡長は安房畜牛畜産組合に依囑して、
 無償で牛乳の施与に当らしむることとした。

 しかし、交通杜絶の場合である。
 牛乳の輸送と、殺菌設備には、相当考慮を要するのである。

 が、折柄東京菓子会社、極東煉乳会社の好意と、
 青年団、軍人分会の盡力とで、9月4日から牛乳を配給した。
 そして10月7日まで、34日間之を継続した。

 配給区域は、北條、館山、那古、船形と南三原の4町1箇村であった。
 ――その上区域を拡張することは、事情が許さなかった――
 
 施配した石高は、実に76石1斗3升の多きに上った。
 施与延人員は、2万人に達した。此の牛乳は、
 全部郡内牛乳業者の寄贈にかかるものである。 」

               ( p256 「安房震災誌」 )

「安房震災誌」の第6章「産業上の被害」にも、牛乳に関する記述が拾えます。
そちらからも、引用しておきます。

勝山町・・本町に在る東京菓子会社、極東会社、ラクトウ会社、
     各工場内の機械は破損し、為めに休業の止むなきに至った。
     其の結果、9月1日より20日間位は全町内の牛乳を無料にて
     一般町民に分配するの状態であった。・・・  (p141)

被災最中の無料配布に関しては、指揮系統の有無で判断が分かれております。

國府村・・本村主要の副業は、畜牛にして、
     生乳の産額は郡内屈指の地でもある。
     震災の結果交通機関は全く杜絶し、
     煉乳作業又不能に陥り、日々搾取した生乳は、全く販路を失ひ、
     徒らに抛棄するの止むなきに至りたること約一ヶ月。・・(p143)


私に思い浮かぶのは、2019年千葉県の台風15号の被害でした。
長期停電が続き、冷蔵庫の品が腐る家庭が続出しているなか、
畜産農家でも、牛乳用クーラーが使えず抛棄しておりました。

北三原村・・産業上の被害は少なからざるも、
      特に三原煉乳所に於ては、工場を破損したる為め、
      引いて本村の畜産業に一大打撃を来たし、
      一時牛乳の処分に苦しんだ。・・・ (p147~148)


さらにまた、牛乳に関する箇所は、
「大正大震災の回顧と其の復興」に記述がみられるので、
次回は、そちらからも引用してみることにします。
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大震災と安房の海の時代⑤

2024-04-05 | 安房
銚子からの救援団体に、陸揚救援をした漁業団体がありました。

「安房震災誌」の「郡外よりの救護団体」に
「当時郡役所に於て受付けた来援団体は・・」(p290)とあり、
その団体名一覧のなかに『・・本銚子漁業青年団』とあるのでした。

他のページの「負傷者の応急手当」の箇所にも、銚子が出てきます。

「 銚子の関谷医師外5名の来援は、4日の午後9時のことである。

  千葉県赤十字社救護班の一行6名と、医師小野田周齋氏等銚子医師団
  の一行の来援は5日のことであった。・・ 」 ( p244 )

銚子の活動については、「大正大震災の回顧と其の復興」下巻にありました。
最初に銚子から来た救護班があり、それに続いた箇所を引用してみます。

「 第一班の本銚子青年団救護班と引違に9月8日
  本銚子漁業青年団が出動した。団員21名を以て
  班を組織し主として北條に於て陸揚作業に従事したのである。

  当時各地より建築材料食料品等を積込んで
  入港した船が澤山あったが小舟はなし、
  あっても櫓の操れる者もゐない有様で
  陸揚には頗る困ってゐる所であった。

  班員は何れも船乗であるから海中作業は得意とする所、
  裸になって水中に飛込み之等の貨物を自由自在に運搬した。
  又此の間軍隊の上陸や避難民の上陸にも援助したので、
  当局からは大に喜ばれた。
  後に大橋郡長より鄭重なる感謝状を贈られたのである。
  班員は宮内寛之助外21名。   」 ( p1354 下巻 )


このあとの記述も、当ブログに引用しちゃいたくなりました。

「 救護班によって具さに悲惨の状況を目撃したので
  今度は罹災者に衣類を送りたいと考へた。
  
  仍て小学校の職員児童中心となり
  婦人会、處女会等の応援を得て募集に着手した處、
  忽ち熱誠なる賛成を得、其の数3477点に達した。

  之を26梱に荷造りし校長携帯木更津に至り
  之より県有の船舶に依頼して安房郡へ発送した。

  此の衣類には概ね寄付者が氏名を付すことにしたが、
  中には見舞の手紙を入れたのもあった。

  配給後は各方面から可憐な禮状が続々来たが避難の状況
  など書いたのもあって誠に涙を催すようなことが多かった。

  尚同校職員児童より醵出した金211圓及役場吏員よりの
  義捐14圓85銭は県教育会を通じて県下罹災の教員生徒児童に
  贈ることとした。当時同校へは東京方面より避難して来た
  児童が360余人一時に入学した。
  此の内約半数は其のまま小学校を卒業したのである。 」(p1355)




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大震災と安房の海の時代④

2024-04-04 | 安房
震災援助の『 物資の陸揚げ 』の記述で、
ぜひ、引用しておきたい箇所がありました。

小見出しに「 目覚しかった漁村青年の活動 」とあります。
その全文を引用。

「 被害の少かった町村からは、日割と人員とを定めて、
  本部救援の為召致したその大部分は青年団員であったが、

  団体的訓練、団旗持参、巻脚絆に跣足袋といった服装の如き、
  形式的には農村青年団の方が整って居た、

  然し其の仕事に於て殊に仕事の分量の多かった
  海岸に於ける物資の陸揚作業等に至っては、   
  漁村青年の方が遥かに能率が上った。

  満25歳以下の者を以って組織せる農村青年の中には、
  四斗入一俵米の運搬も容易でなかった者も見うけられた、
  況んや20貫もあらうといふ菰包等の運搬に於ておやである。

  然るに漁村の青年は年少の者と雖海の操業には慣れ切った者であった、
  就中海底の隆起と干潮の際などは数十間の沖合より、
  背を以って水中徒渉陸揚をせねばならぬ状態である、

  或は艀舟の操縦、或は海中に於ける荷物の受渡等に至っては、
  腹部を没する波のうねり、しぶき等をも物ともせず、
  褌一つの身軽を以って、鼻歌交りに、可成の重量あるものと
  雖易々として、陸揚をなせるが如き、流石は稼業柄、
  活動の目覚しきもののあったことは、衆目の見る所であった。 」

     ( p891~892 「大正大震災の回顧と其の復興」上巻 )


これは、海が身近でない山間部の育ちと、漁師町の育ちの違いが、
この物資の陸揚げの際に、鮮明な形で映ったということでしょう。

思い浮かんだのは、田宮虎彦がその著「花」に載せている箇所でした。
こちらは女性が主人公で、安房の外房の町の花づくりを描いた物語です。
この機会に、陸揚げの関係しそうな箇所を引用してみることに

「・・かたくかたまった凝灰質の砂岩がところどころに露呈している。
  そんな三反や四反の畑で一年の生計をたてて行けるわけはなかった。

  安房丘陵をうしろにせおって木樵(きこり)の多い向原や奥畑をのぞき、
  天畑にかぎらず〇浦の町のどの部落でも男たちはみな海に出ていった。

  男たちが海に出ていくこと、つまり漁業が〇浦のどの部落でも
  生計を立てていく主な仕事であった。そして、畑をたがやし
  冬は麦をつくり夏はささげや大豆やあずきなどをつくるのは
  残った女たちの仕事であった。半農半漁といっても、
  漁業の方に重みは大きくかたよっていた。・・・・・

  種蒔きの時期や刈入れの時期は畑仕事に追われはしたが、
  その間の時期は、僅か二、三反の畑仕事など女たちだけでも
  手は余ってしまう。女たちは畑仕事が終ると、
 
  イサバヤに仕事があればイサバヤにかよい、
  あぐりの法螺貝が聞えれば畑仕事や家まわりの
  雑用仕事を投げだして〇浦の港や△浦の浜にかけおりて行った。

  ・・・あぐり網の鰯を浜まで運んだはしけから受けとる女には、
  浜でならんで待ちうける女たちのほかに、
  胸まで波間におどりこんで、はしけのそばまでかけよっていき、
  はしけに乗ったノリコから鰯をいっぱいいれた万両籠をうけとる女がいた。
  浜で待っている女たちの仕事は子供でも老婆でも、
  時には東京や千葉あたりから遊びに来たきゃしゃな女たちの
  浜遊び半分の手伝いでも間に合ったが、
  胸まで波間におどりこんでいってはしけの舟ばたまで
  万両籠を受けとりにいく女たちの仕事はそんな生易しい仕事ではない。
  ・・・・    」

    ( p23~26 新潮日本文学36「田宮虎彦集」昭和47年 )


  
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大震災と安房の海の時代③

2024-04-02 | 安房
「千葉県安房郡誌」(大正15年6月・千葉県安房郡教育会)の記述に

「 維新前の経済状態は之を詳にし難きも、
  古来安房国の石高は十万石と稱せられ、
  農業は産業上重要なる位置を占めたり。

  然し米穀は概して需要を充たすに足らず、
  遺憾ながら自給自足の状態にてはあらざりき。

  天然漁業に適したる本郡が、
  古来漁業を以て全国に聞え、
 『 安房は水の国 』との稱ありしも、
  蓋し天然的の理由のみにはあらざるべし。

  即ち江戸幕府時代には交通不便ながらも、
  海産物を江戸に輸送し、それによって
  所謂房州の経済状態は維持されたるが如し。
  従って生活の質素なりしは当然と云ふべし。・・ 」( p442 )

という記述があります。
さて、関東大震災の余震がたびたび来る中にあって、
海運の重要性は、躊躇を許さないものがありました。

昭和8年8月発行の「大正大震災の回顧と其の復興」上巻に
元安房郡社会教育主事・鈴木保氏の「戦場の如き慰問品の陸揚げ」
と題する文がありました。最初の方には、こうあります。

「・・倒潰家屋の片付、交通整理、応援団体の指揮等一通り済んだ
 9月の下旬頃から、全国各地から陸続として慰問品が寄贈される、
 依って慰問品係が専任された。・・・ 」

「 ・・或る日の午後3時頃と記憶する。
 大阪商船会社北京丸は海岸遠く碇を下ろして、
 船長は事務所を訪れた。

 大阪方面より関東災民に寄贈すべき慰問品を本船に満載してゐる。

 明日の午前12時迄に引取って貰ひたい、
 本船は明日正午当港を出帆すべきにより、
 同時刻までに引取を完了せざるに於ては、
 本船は他の地方に之を輸送すべし、

 と云ふ意味の通告であったと記憶する。
 郡長は桟橋会社の楼上から沖に碇を下ろして居る北京丸を望み、
 何か決するところがある。
 
 我等は五、六千噸もある大商船に満載せる慰問品、
 全部を貰ひ受けて災民に頒ちたいといふ、希望は満ち満ちてゐる。
 ・・・・

 大橋郡長は決する所あり、館山町長を召致して、町民一戸一人
 賦役の方法を以って明日正午までに引取り方を交渉した。
 同町長之を快諾、直ちに町民に向って、総動員令を下したのである。

 郡は東京通ひの小蒸気船一、二艘(300噸位)
 外に渡航船(荷物運送船)数隻を徴発して、萬全を期した。

 翌朝夜の未だ明けやらない東雲の頃より、
 屈強の船頭を各受取船に乗り込ましめ、
 無二無三、本船より移荷せしめた。

 そして数十隻の艀舟によって海岸に運ぶ、
 人夫は陸上にあって艀舟の来るのを今や遅しと
 手ぐすね引いて待ってゐる。・・・・・

 時しも震災の為海底隆起し加之干潮の為
 艀舟より陸上までピシャピシャ波を徒渉
 せなければならぬ、不便此の上もなかった。

 大きなる荷物、重き菰包、擔ぐ者背負ふ者、
 誤って水中に落す者、格納所まで二町乃至三町の間、

 多数の人夫の往復、さながら戦時輸送の実景を見るが如き心地がした。

 我等は陸揚は兎も角、本船からの引取完了を心痛し、
 遠く本船内の活動を慮ること刻一刻、正午を期し 
 黒煙を吐きつつ北京丸の出帆を眺めた。

 その時引取船上の人々の疲れ切った体にも、
 使命を果した朗な顔が双眼鏡のレンズに映ずるを見、萬歳を叫んだ。
 ・・・・・      」 ( p887~890 )
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大震災と安房の海の時代②

2024-04-01 | 安房
この機会に、『安房震災誌』から関東大震災の船関連をピックアップすることに。

「・・水産試験場所属の汽船『ふさ丸』と『加々美丸』を徴発して、
 輸送のことに当らしめた。外に東京湾汽船株式会社の汽船清瀬丸と、
 同北海丸も徴発して、救護品、食料、慰問品等の輸送に充てた。

 それでも尚ほ不足を感じたので、上記4隻の常備輸送船の外に、
 臨時傭船として、宮代丸(船形町)福神丸(天津町)幸神丸(船形町)
 も亦た同一の任務に充てた。常備船の根拠地は館山港であったが、
 最も頻繁に往来した地点は、木更津と、勝浦と、次は千葉であった。

 そして此等汽船の活動は、9月3日未明から殆んど毎日のことで、
 その航海日誌を見ると一見驚くべき活動振りを示してゐる。

 鉄道も、陸運も全く杜絶した時のことで、
 ひとり海運のみよったのであるから、此の間は全く海の時代である。
 安房でなければ出来ないことであった。  」( p276 )


救護班の来援に関する記述も、この機会に引用しておきます。

「 銚子の関谷医師外5名の来援は、4日の午後9時のことである。
  千葉県赤十字社救護班の一行6名と、医師小野田周齋氏等の
  銚子医師団の一行の来援は5日のことであった。

  此等の人々は、何れも勝浦から、陸路を北條へと廻って行った
  のである。その労苦、大書特筆すべきである。・・・  」( p244 )


「 ・・5日の夜半であった。
  夷隅郡青年団員47名、青木堂郡視学指揮の下に館山海岸に到着。

  次で長生郡青年団員51名、山武郡青年団員44名、印旛郡青年団員47名、
  羽計長生、田部山武、石原印旛、各郡社会教育主事の指揮の下に来援。

  其他軍人分会、青年団水産会等の各団体員も、
  或は陸路より、或は海路より陸続として、来援してくれた。

  そして長途の疲労をも忘れて、或は罹災民の救護に、
  或は交通障害物取除に、或は食料品の荷揚運搬等に
  極力盡瘁されたのである。・・・・ 」

                    ( p289~290 「安房震災誌」 )
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