曽野綾子著「揺れる大地に立って」(扶桑社・2011年9月10日発行)を
そばに置いているので、この機会にパラパラとめくります。
東日本大震災に遭遇して、マスコミや各種雑誌は、
曽野綾子氏に誌面を提供しておりました。
その曽野綾子氏は聖心女子大学卒のカトリック教育を受け
育っておりました。この本にも聖書からの引用がところどころに
出てきております。
「東日本大震災による困難に直面しながら、
今日私が書くことは不謹慎だという人もあろうが、
やはり書かねばならぬと感じている。・・・・
・・・それでも人間は今日から別の道を見つけて
前に歩き出さなければならないのだ。
新約聖書の中に収められた聖パウロの書簡の中には、ところどころに
実に特殊な、『 喜べ! 』という命令が繰り返されている。
私たちの日常では皮肉以外に『喜べ!』と命令されることはない。
感情は、具体的な行動と違って、外から受ける命令の範疇外のことだからだ。
だが聖パウロの言葉は、
人間が命令されれば心から喜ぶことを期待しているのではないだろう。
喜ぶべき面を理性で見いだすのが、人間の悲痛な義務だということなのだ。
人間は嘆き、悲しみ、怒ることには天賦の才能が与えられている。
しかし今手にしているわずかな幸福を発見して喜ぶことは
意外と上手ではないのだ。 」(p28~29)
ここだけを引用してもはじまらないのが、この本の特徴なのですが、
ここは、東日本大震災直後に書かれていることを念頭におくと分かりやすい。
また、こういう箇所もありました。
「 聖書は『使徒言行録』(20・36)で
『 受けるより与える方が幸いである。 』といっている。
これは人間の生甲斐というものをごく普通の言葉で表した名言である。
・・・・・
人間を失わないのは、ほとんど人間性を失いかけているように
見える不幸や貧困の中ででも他者に与えるものを持っている場合である。
それは、物やお金ではない。その人が人間であることの
尊厳を示せる機会を残しておくことなのである。 」(p124)
聖書を引用したあとにつづくのは、東日本大震災の事例でした。
たとえば、こんな箇所。
「 私は今回ほど、我が同胞に誇りと尊敬を持ったことはない。
人々は配給の食料を整然と列を作って受け、量が十分でない場合には、
簡単な合議制で公平に分け合った。
運命を分け合う気力はすばらしいものだ。
事件直後では産経新聞の3月14日付の記事が、
宮城県下で窃盗事件が相次いだと報じただけだ。
もちろん災害の中心地は破壊が烈しくて盗むものもなかっただろう。
盗まれたのは塩釜、多賀城などの食料品店で、総額わずか40万円。
休業中のガソリンスタンドで、ノズルに残っていた1リットルの
ガソリンを盗もうとした24歳の会社員まで入れてである。
あってはならない災害だったが、今回の事件で、
日本と日本国民に対する評価は世界で一挙に高まると思われる。
厳しい天災の中にあって、このような静謐を保てる気力は、
世界にそう多くはないからだ。 」(p131~132)
パラパラとめくっていると、
関東大震災で曽野綾子さんの両親が遭遇したエピソードが語られています。
そこを引用しておきたいと思いました。
「一昔前の日本は、貧しい国であった。
しかし社会は当時から折り目正しく公平だった。
私は援助を受けた日本の歴史的な姿を、一市民の姿から書いておきたい。
1923年の関東大震災の時、東京に二人の平凡な市民の女性たちが住んで
いた。共に20代半ば、共に幼い娘を持っていた田舎出身の主婦であった。
大震災の後、この女性たちは、アメリカからの贈り物という毛布をもらった。
一人の女性は、後年生活が楽になって、義援の毛布より少し上等な毛布を
自分で買えるようになっても、もらった毛布は大切に仕事場で使っていた。
その二人とは、夫の母と私(曽野綾子)の実母である。
当時二人はまだお互いの存在さえ知らず東京の下町で暮らしていた。
後年、震災後に生まれた息子と娘が結婚した後、
二人は震災の話をして、二人とも公平に同じような
アメリカの毛布をもらったことを確認し合った。
日本の町方の組織は、当時からそれほどにしっかりしていて、
しかもフェアーだったのである。誰か顔役がいて、被災者の
毛布を横流ししたことはなかったのだ。まだ若い妻たちが、
何も言わなくても毛布はもらえた。これはすばらしい記録である。」(p139)
ここに『東京の下町で暮らしていた』という箇所があります。
東京の下町といえば、現在、江東区・東京15区補欠選挙があり、
選挙演説期間で、日本中の注目を集めております。
どうしても、選挙演説を聞いている江東区民のことが
今は思い浮かんできます。『喜べ!』江東区民の方々。