この機会に、『安房震災誌』から関東大震災の船関連をピックアップすることに。
「・・水産試験場所属の汽船『ふさ丸』と『加々美丸』を徴発して、
輸送のことに当らしめた。外に東京湾汽船株式会社の汽船清瀬丸と、
同北海丸も徴発して、救護品、食料、慰問品等の輸送に充てた。
それでも尚ほ不足を感じたので、上記4隻の常備輸送船の外に、
臨時傭船として、宮代丸(船形町)福神丸(天津町)幸神丸(船形町)
も亦た同一の任務に充てた。常備船の根拠地は館山港であったが、
最も頻繁に往来した地点は、木更津と、勝浦と、次は千葉であった。
そして此等汽船の活動は、9月3日未明から殆んど毎日のことで、
その航海日誌を見ると一見驚くべき活動振りを示してゐる。
鉄道も、陸運も全く杜絶した時のことで、
ひとり海運のみよったのであるから、此の間は全く海の時代である。
安房でなければ出来ないことであった。 」( p276 )
救護班の来援に関する記述も、この機会に引用しておきます。
「 銚子の関谷医師外5名の来援は、4日の午後9時のことである。
千葉県赤十字社救護班の一行6名と、医師小野田周齋氏等の
銚子医師団の一行の来援は5日のことであった。
此等の人々は、何れも勝浦から、陸路を北條へと廻って行った
のである。その労苦、大書特筆すべきである。・・・ 」( p244 )
「 ・・5日の夜半であった。
夷隅郡青年団員47名、青木堂郡視学指揮の下に館山海岸に到着。
次で長生郡青年団員51名、山武郡青年団員44名、印旛郡青年団員47名、
羽計長生、田部山武、石原印旛、各郡社会教育主事の指揮の下に来援。
其他軍人分会、青年団水産会等の各団体員も、
或は陸路より、或は海路より陸続として、来援してくれた。
そして長途の疲労をも忘れて、或は罹災民の救護に、
或は交通障害物取除に、或は食料品の荷揚運搬等に
極力盡瘁されたのである。・・・・ 」
( p289~290 「安房震災誌」 )