26日ブログ更新して、すぐ寝たら11時半過ぎに電話を受け家人があわてている。誰か亡くなったのかな?
話を聞いて「え!」という感じだ。妻の親がなくなった。翌日27日通夜で28日告別式
東京だと28日友引は火葬場は休みのはずだが、向こうは関係ないのか?
義理の親だから立場的には通夜から行かねばなるまい。
27日は仕事納めで納会はあるけど、行く準備をし始めた。
仕事はほとんど片付いていた。あいさつ回りも大体終えていた。強い約束もないので大丈夫だろう。
朝の朝礼で挨拶して11時過ぎに事務所を出ることにした。
東京駅で新幹線のホームにつく。家人と娘を見かける。ビックリだ。
それぞれに切符を取って現地で会う前提で出たのに、ばったり会う。おいおいこんなことってあるの!
名古屋を新幹線が出たあたりから初めて関西へ着任した時のこと頭に思い浮かべた。
東京の生まれ育ちで大学も東京、就職先は関西系の企業を意識して避け、東京本社の会社へ。
東京支店に配属になって頑張っていたのに突如大阪支店の異動辞令がきた。ショックだった。
直後に上司から「リーダー」で行けるかもしれないよと言われ、気を取り直す。でも本当になれるかなあ?最小単位のリーダーにはなりたかった。それでも大阪に行くくらいなら実家の家業を継いでもいいのかなと思い、3月初旬の内示から1カ月落ちつかなかった。結局2回往復して大阪天王寺の近くに住居を決めた。恐る恐る異動先に行くと、自分のための座席が用意されていた。リーダー席だった。うれしかった。
最初はすぐにでも東京に帰れるようにと、新大阪付近で家を捜そうとした。ところが、街を歩くと至る所に「部○解放」の文字がある。「何じゃいこれは?」と思いやめた。今回久々に新大阪の駅を降りたけど、近くにその文字はなくなっていた。時代の推移だろう。
新大阪の駅で和歌山行き特急「くろしお」に乗った。
そうしたら何と隣の座席に妻と娘がすわった。またまたびっくりした!
車窓を眺める。梅田周辺の雰囲気が変わったようだ。高層ビルが増えて、ずいぶんとダイナミックになった。福島をすぎしばらくすると、妙なドームの建物に気が付いた。「京セラドーム」のようだ。大阪環状線のラインを大人になって初めて通った時、ずいぶんと汚い風景だと思った。瓦の汚さが目立ったが、今回は割と屋根が葺き替えられていた印象をもった。天王寺だ。高層ビルをたてている最中だ。
天王寺から駅1ついった所に住んでいた。車窓から天王寺高校が見える。住んでいたところは高校に近いところだ。でも見えない。わりと雰囲気が変わっていた気がした。大和川をこえるのも久しぶりだ。電車は堺の鳳あたりまでは比較的ゆっくり走る。その先はぐんぐんスピードをあげていく。
阪南エリアをこえるともうすぐ和歌山だ。妙に緊張する。
山を越えると和歌山の平野が見えてくる。空の旅では上空から和歌山市内の上をよく通る。でも陸路で向かうのは久しぶりだ。別に緊張する必要はないのに落ち着かない。
今から18年前、和歌山から異動するとき、駅で当時の部下たちにバンザイされながら離れた。涙が止まらなかった。その思いと異動辞令が出て、初めて和歌山に特急「くろしお」に乗って行くときのこと両方が脳裏にへばりついてきた。車内放送で『まりと殿様』「テンテン・テンマリ」と流れるのが印象的だったが、割と普通の放送に変わっていたのが残念だった。大阪に行くときは大淀の橋を渡ると大阪に来たという実感がある。和歌山の場合は「紀ノ川」だ。水量の多い美しい川だ。渡って本当に和歌山に来たなと実感する。海側には住金の大きな工場が見える。
和歌山市駅に行き、そこからもう一度電車に乗って葬祭場に行く。
紀ノ川をこえるときは、ちょうど夕日が沈みつつあるときだった。これがまた美しい。
通夜に向かう。
家族葬で簡単に済ませる方針だ。それの方がいい。自分の両親の場合、近所や外野がうるさいので、普通にやった。参列者はそれぞれ450人くらいだった。1年の内に2回も葬式をやり気苦労も多かった。
でもこうやって家族葬というものを初めて経験すると、気楽な方がいいと思えてくる。
ホテルに戻ろうとしたら、その昔飲みに行った場所が気になった。捜しに行くことにした。
でも見つからない。住宅地の一角にあるところで、繁華街の中ではない。記憶をたどってこの辺りかと懸命に捜したがない。あたりには人は歩いていなかった。そう言えばあの頃より飲酒規制が厳しい。客が減ったかな?なんて思いながらきっと無くなったのかと確信した。
昔いた事務所に向かった。まだある。全国最小の事務所だった。暗くなったときに見て胸がジーンとした。
思い出に浸った。
翌朝早くおきて和歌山の街を歩いた。
基本そんなに変わっていない。南海和歌山市駅周辺は悲しいくらいに廃れた。昔食べた店もなくなった。メインの百貨店「丸正百貨店」はなくなった。商店街があるブラクリ丁も寂れていっていると聞く。
お城だけは変りようにないだろうなあ。
街の雰囲気は少し変わったくらいか
お堀の傍は遊歩道になっていた。
番丁のメイン道路
和歌山県民は所得は少ないが貯蓄高は多い。大手証券会社だけでなく、大手都銀もある。
合併して三井住友銀行になって、元の三井銀行の建物が居抜きで和民になっていたのには笑えた。
大きなホテルができた。でもこのくらいしか高い建物はない。
思い出はたくさんある。和歌山の現地採用の人たちと一緒に仕事した。部下が年上ばかりだったので、最初は本当に大丈夫かと思った。異動で行くときは気が重かった。でも一緒に働いてくれた人たちは本当に気のいい人たちだった。助けてくれた。ここに行かなかったら今の自分はなかったかもしれない。
火葬場の和歌山斎場は立派な建物だった。両親の葬儀は品川の桐ヶ谷斎場でやった。桐ヶ谷の陳腐さと比較するとあまりの凄さに驚いた。プロの設計士による仕事だと感じる建物だ。控室が3mくらいある高天井の部屋で、そこで精進料理を食事したがおいしかった。先日近所の人の葬式があり、桐ヶ谷に出入りしている仕出し料理のまずさは自分と妹が体験してわかった。親の葬儀の時あんなマズイものを参列していただいた人に出していたのかと思うと気恥ずかしくなった。これが東京の城南地区のメインの葬儀場でいいのかと思う。
妙なことを感じながら葬儀は無事終わった。
話を聞いて「え!」という感じだ。妻の親がなくなった。翌日27日通夜で28日告別式
東京だと28日友引は火葬場は休みのはずだが、向こうは関係ないのか?
義理の親だから立場的には通夜から行かねばなるまい。
27日は仕事納めで納会はあるけど、行く準備をし始めた。
仕事はほとんど片付いていた。あいさつ回りも大体終えていた。強い約束もないので大丈夫だろう。
朝の朝礼で挨拶して11時過ぎに事務所を出ることにした。
東京駅で新幹線のホームにつく。家人と娘を見かける。ビックリだ。
それぞれに切符を取って現地で会う前提で出たのに、ばったり会う。おいおいこんなことってあるの!
名古屋を新幹線が出たあたりから初めて関西へ着任した時のこと頭に思い浮かべた。
東京の生まれ育ちで大学も東京、就職先は関西系の企業を意識して避け、東京本社の会社へ。
東京支店に配属になって頑張っていたのに突如大阪支店の異動辞令がきた。ショックだった。
直後に上司から「リーダー」で行けるかもしれないよと言われ、気を取り直す。でも本当になれるかなあ?最小単位のリーダーにはなりたかった。それでも大阪に行くくらいなら実家の家業を継いでもいいのかなと思い、3月初旬の内示から1カ月落ちつかなかった。結局2回往復して大阪天王寺の近くに住居を決めた。恐る恐る異動先に行くと、自分のための座席が用意されていた。リーダー席だった。うれしかった。
最初はすぐにでも東京に帰れるようにと、新大阪付近で家を捜そうとした。ところが、街を歩くと至る所に「部○解放」の文字がある。「何じゃいこれは?」と思いやめた。今回久々に新大阪の駅を降りたけど、近くにその文字はなくなっていた。時代の推移だろう。
新大阪の駅で和歌山行き特急「くろしお」に乗った。
そうしたら何と隣の座席に妻と娘がすわった。またまたびっくりした!
車窓を眺める。梅田周辺の雰囲気が変わったようだ。高層ビルが増えて、ずいぶんとダイナミックになった。福島をすぎしばらくすると、妙なドームの建物に気が付いた。「京セラドーム」のようだ。大阪環状線のラインを大人になって初めて通った時、ずいぶんと汚い風景だと思った。瓦の汚さが目立ったが、今回は割と屋根が葺き替えられていた印象をもった。天王寺だ。高層ビルをたてている最中だ。
天王寺から駅1ついった所に住んでいた。車窓から天王寺高校が見える。住んでいたところは高校に近いところだ。でも見えない。わりと雰囲気が変わっていた気がした。大和川をこえるのも久しぶりだ。電車は堺の鳳あたりまでは比較的ゆっくり走る。その先はぐんぐんスピードをあげていく。
阪南エリアをこえるともうすぐ和歌山だ。妙に緊張する。
山を越えると和歌山の平野が見えてくる。空の旅では上空から和歌山市内の上をよく通る。でも陸路で向かうのは久しぶりだ。別に緊張する必要はないのに落ち着かない。
今から18年前、和歌山から異動するとき、駅で当時の部下たちにバンザイされながら離れた。涙が止まらなかった。その思いと異動辞令が出て、初めて和歌山に特急「くろしお」に乗って行くときのこと両方が脳裏にへばりついてきた。車内放送で『まりと殿様』「テンテン・テンマリ」と流れるのが印象的だったが、割と普通の放送に変わっていたのが残念だった。大阪に行くときは大淀の橋を渡ると大阪に来たという実感がある。和歌山の場合は「紀ノ川」だ。水量の多い美しい川だ。渡って本当に和歌山に来たなと実感する。海側には住金の大きな工場が見える。
和歌山市駅に行き、そこからもう一度電車に乗って葬祭場に行く。
紀ノ川をこえるときは、ちょうど夕日が沈みつつあるときだった。これがまた美しい。
通夜に向かう。
家族葬で簡単に済ませる方針だ。それの方がいい。自分の両親の場合、近所や外野がうるさいので、普通にやった。参列者はそれぞれ450人くらいだった。1年の内に2回も葬式をやり気苦労も多かった。
でもこうやって家族葬というものを初めて経験すると、気楽な方がいいと思えてくる。
ホテルに戻ろうとしたら、その昔飲みに行った場所が気になった。捜しに行くことにした。
でも見つからない。住宅地の一角にあるところで、繁華街の中ではない。記憶をたどってこの辺りかと懸命に捜したがない。あたりには人は歩いていなかった。そう言えばあの頃より飲酒規制が厳しい。客が減ったかな?なんて思いながらきっと無くなったのかと確信した。
昔いた事務所に向かった。まだある。全国最小の事務所だった。暗くなったときに見て胸がジーンとした。
思い出に浸った。
翌朝早くおきて和歌山の街を歩いた。
基本そんなに変わっていない。南海和歌山市駅周辺は悲しいくらいに廃れた。昔食べた店もなくなった。メインの百貨店「丸正百貨店」はなくなった。商店街があるブラクリ丁も寂れていっていると聞く。
お城だけは変りようにないだろうなあ。
街の雰囲気は少し変わったくらいか
お堀の傍は遊歩道になっていた。
番丁のメイン道路
和歌山県民は所得は少ないが貯蓄高は多い。大手証券会社だけでなく、大手都銀もある。
合併して三井住友銀行になって、元の三井銀行の建物が居抜きで和民になっていたのには笑えた。
大きなホテルができた。でもこのくらいしか高い建物はない。
思い出はたくさんある。和歌山の現地採用の人たちと一緒に仕事した。部下が年上ばかりだったので、最初は本当に大丈夫かと思った。異動で行くときは気が重かった。でも一緒に働いてくれた人たちは本当に気のいい人たちだった。助けてくれた。ここに行かなかったら今の自分はなかったかもしれない。
火葬場の和歌山斎場は立派な建物だった。両親の葬儀は品川の桐ヶ谷斎場でやった。桐ヶ谷の陳腐さと比較するとあまりの凄さに驚いた。プロの設計士による仕事だと感じる建物だ。控室が3mくらいある高天井の部屋で、そこで精進料理を食事したがおいしかった。先日近所の人の葬式があり、桐ヶ谷に出入りしている仕出し料理のまずさは自分と妹が体験してわかった。親の葬儀の時あんなマズイものを参列していただいた人に出していたのかと思うと気恥ずかしくなった。これが東京の城南地区のメインの葬儀場でいいのかと思う。
妙なことを感じながら葬儀は無事終わった。