伊豆諸島の順察をして「南汎日録」を書いた代官、羽倉簡堂の海上の苦難ぶりを、「8joるんるんガイド」2008Vol.14秋号から抜粋して紹介します。
使用した船は八丈島預かりの江戸の大型官船で、長さ11間、巾3間の一本マストの外洋帆走用の船であった。船頭と水夫9人が乗り込み当時としては頑強さ、航行能力に優れ頼りになる島通いの大型官船であった。
1839年4月22日、一行は数艘の船隊を組み江戸の鉄砲洲を出発した。大島、利島、新島、神津島、を視察し、5月18日に三宅島へ到着した。ここまでは幸運にも風向きが良く問題なく帆走出来た。
しかし、三宅島からが苦難のセイリングとなる。簡略に書く。
5月27日三艘で、遠方に見える御蔵島へ出発。始めは風向きも良かったがしばらくして八丈島が見えだした頃、荒天になり一艘は転覆し、残りはなすすべもなく出発した三宅島へ漂着する。
6月2日態勢を整えて出発するが、風が逆風になり大島まで戻ってしまう。
6月7日大島出港、八丈島直行を試みるが、式根島へ流される。
6月8日式根島を出て八丈島へ向かうが逆に伊豆の三崎港まで戻ってしまう。
6月27日式根島を出港し八丈島を目指す。
7月1日八丈島の見えるところに達するが、今度は西風に吹かれ、東の遥か太平洋上まで流される。200海里も流された後、東風に変わる。この幸運を必死でつかみ西へ帆走する。ついに午後8時頃、八丈島の西の八丈富士の麓の小さな浦、荷浦に到着することが出来た。
三宅島を出発したのが5月27日、八丈島へ到達したのが7月1日であった。実に1ケ月以上行ったり来たりの苦難なセイリングであった。
三宅島と八丈島の間には黒潮の主流が西から東に流れ難所である。
それにしても現在の外洋帆走洋用の長さ12メートル位のクルーザーは三宅島と八丈島の間は10時間位のセイリングという。
GPSや天気予報の有無もあるが、決定的な違いは風に向かって登れるか否かの性能の違いと思う。帆船の設計の進歩の大きさに感慨無量です。(終わり)