後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

江戸時代大型帆船の苦難のセイリング記録

2009年02月03日 | うんちく・小ネタ

伊豆諸島の順察をして「南汎日録」を書いた代官、羽倉簡堂の海上の苦難ぶりを、「8joるんるんガイド」2008Vol.14秋号から抜粋して紹介します。

使用した船は八丈島預かりの江戸の大型官船で、長さ11間、巾3間の一本マストの外洋帆走用の船であった。船頭と水夫9人が乗り込み当時としては頑強さ、航行能力に優れ頼りになる島通いの大型官船であった。

1839年4月22日、一行は数艘の船隊を組み江戸の鉄砲洲を出発した。大島、利島、新島、神津島、を視察し、5月18日に三宅島へ到着した。ここまでは幸運にも風向きが良く問題なく帆走出来た。

しかし、三宅島からが苦難のセイリングとなる。簡略に書く。

5月27日三艘で、遠方に見える御蔵島へ出発。始めは風向きも良かったがしばらくして八丈島が見えだした頃、荒天になり一艘は転覆し、残りはなすすべもなく出発した三宅島へ漂着する。

6月2日態勢を整えて出発するが、風が逆風になり大島まで戻ってしまう。

6月7日大島出港、八丈島直行を試みるが、式根島へ流される。

6月8日式根島を出て八丈島へ向かうが逆に伊豆の三崎港まで戻ってしまう。

6月27日式根島を出港し八丈島を目指す。

7月1日八丈島の見えるところに達するが、今度は西風に吹かれ、東の遥か太平洋上まで流される。200海里も流された後、東風に変わる。この幸運を必死でつかみ西へ帆走する。ついに午後8時頃、八丈島の西の八丈富士の麓の小さな浦、荷浦に到着することが出来た。

三宅島を出発したのが5月27日、八丈島へ到達したのが7月1日であった。実に1ケ月以上行ったり来たりの苦難なセイリングであった。

三宅島と八丈島の間には黒潮の主流が西から東に流れ難所である。

それにしても現在の外洋帆走洋用の長さ12メートル位のクルーザーは三宅島と八丈島の間は10時間位のセイリングという。

GPSや天気予報の有無もあるが、決定的な違いは風に向かって登れるか否かの性能の違いと思う。帆船の設計の進歩の大きさに感慨無量です。(終わり)


比企氏・間寛平氏のヨットが太平洋日付け変更線を越えました!

2009年02月03日 | うんちく・小ネタ

Yacht1 1月上旬に出発した比企さんと間さんの乗った左の写真のヨットが日付け変更線を昨日越えました。

アメリカ向けに順調にセイリングしている様子の動画が、http://www.earth-marathon.com/ に御座います。

これに比較して江戸時代に八丈島まで帆走しようとして、大島へついたり、伊豆半島に流れ着いたり、江戸へ逆戻りしたりと、まったく支離滅裂な帆走ぶりでした。命がけの危険な旅でした。

勿論、GPSも天気予報も無い時代でした。しかし帆走能力が決定的に違うのです。0701syoko_kara031 ヨットではマストに沿って三角形のセイルを揚げ、風上45度まで上れます。ジグザグ走法をすると完全に風上へのぼれます。

従って八丈島さえ見えていれば逆風でも到達できるのです。

このような江戸幕府の大型官船でも、八丈島を目前にして、逆風の為、三浦半島まで吹き流されることがしょっちゅうあったそうです。左の幕府の官船は流人を島へ送る船です。近藤富蔵の「八丈実記」から転載した図です。http://www.soumu.metro.tokyo.jp/01soumu/archives/0701syoko_kara03.htm 

このブログは「山林・杜の人のブログ」---クルーザーヨットのブログーーーという名称なのにヨットの記事が最近無いので、ヨットの記事を掲載します。(終わり)


「八丈島からの実況放送」

2009年02月03日 | 旅行記

082

ここはホテルのロビー。眼前の大きなガラスの向こうに太平洋が広がっている。左手の遠方には急峻な絶壁が海へ落ち込んでいる。八丈島は雄大な火山島だ。三原山と八丈富士という火山が東西にある。ひょうたん形の大きな島である。3日間レンターカーで島の隅々まで走りまわり古民家村や歴史民族資料館を丁寧に見た。心のこもった島料理のお膳や島で取れた魚の握り寿司も食べた。強風で定期船も航空便も欠航になり、予定に無かったもう一日をこのホテルに泊まることになる。
時間が出来たので八丈島の第一印象を島に居る間に書き残して置きたいと思う。
まず植物が決定的に違う。関東地方によく見られるケヤキ、クヌギ、コナラなどの落葉雑木林が一切無い。松や杉のような針葉樹も無い。山にビッシリ繁茂しているのは数種のヤシ、タブの木、多くの種類のシダ植物、アロエ、ハイビスカスなどの花々などである。植物の専門家でないが一見沖縄の山の植物とあまり変わらないようだ。熱帯性の植物が溶岩や火山灰の急な斜面に成長している。
火山のスケールが大きいのでハワイ諸島を連想させる。景観の規模が大島や神津島などの伊豆七島に比較して数倍大きい。気持ちがゆったりとして豊かな気分になれる。特にここ八丈ビューホテルのロビーは三方が総ガラス張りで太平洋が一望できる。

土地が溶岩や火山灰に覆われていて作物が出来ない。良い質の米も採れない。したがって日本の水田農村に比して昔から苦しい生活が続いていた。東京都は大きな支援をしているが、経済的にはまだまだである。車で3日走り回り家々の材質を見れば明らかだ。
しかし、しかし、とくりかえし強調したいのだが、昔の日本の親切さや人情がいきいきとして存続している。今回の旅行のアレンジをしてくれた会社のおばさんに島の人々の親切さを色々聞いた。このおばさんは東京から20年前に島に移住し子供も島で大きくなった。
この島では家々のカギをかけない。車のカギも四六時中さしたまま。朝起きてみると玄関先に新鮮な野菜が置いてある。近所の人が朝とれたものを置いておくそうだ。島の外から移住して来た人々にはとても住みよい所だと何度も言う。
第一印象の結論は「繁茂する熱帯性植物」と「昔の日本人の良さの温存」の二つといえる。

窓の外の太平洋には雨雲がますます黒くなり、風が一層強くなってきたようです。
もう一泊する覚悟をしながら第一印象の報告を終わりとします。八丈ビューホテルのロビーにて。(眼前の太平洋には夕霧がかかっています、、、)  藤山杜人

2009/01/30 14:55に書いた文章です。

補足:「1838年に代官、羽倉簡堂の見た八丈島の風景と生活状況」

1838年に下総、両野、伊豆、伊豆諸島の代官だった羽倉簡堂が伊豆七島、御蔵島、八丈島を視察し、「南汎日録」を書いている。
小生の見た現在の八丈島と同じ記述、違う点を簡略に記して補足とする。
まず植物や山々の風景は琉球(沖縄)に似ている。人々の習俗も琉球に似ている。と、書いてあるが、小生の印象と一致している。
江戸幕府の出先役所の玉石の石垣に囲まれ、ヤシやソテツ類が繁り、ウグイスがしきりに鳴いていた。この風景は現在も全く同じ。
一つだけ決定的に違う風景は、あちこちに棚田があり二毛作で稲を盛んに栽培していた風景です。その水田風景は現在は完全に無くなっています。
「あそこ寿司」の主人も水稲のことを話していた。何故無くなったのですか?という小生の問いに対して、減反政策ですよと笑っていました。秋田コマチやヒトメボレやコシヒカリのような良質な米は取れないので農家は止めてしまったそうである。
「南汎日録」には他にも面白いことが多く書いてあるが、とりあえず補足的な内容のみここに記す。