大和朝廷のころは形式的には駿河の国へ属していた。直接的な支配は室町時代末期に北条早雲の家来が代官として大賀卿村の大里に陣屋を作ったころから始まる。それ以前は室町時代に鎌倉公方を補佐する関東管領の上杉憲顕が派遣した代官も居た。しかし、船旅の危険が大きいためほとんど独立的な孤島であったと思われている。江戸幕府は早雲の派遣した代官の陣屋跡に島役所を作り、八丈島を江戸幕府の直轄領にして直接統治し始める。
幕府は、独特の染め方をした絹織物、黄八丈を年貢として納めさせた。
江戸時代になって始めての流人は関ヶ原の合戦で敗れた秀吉の家老であった宇喜多秀家とその付き人一行である。それ以来幕末までに合計1917人の流人が八丈島へやって来た。
江戸幕府の島役所は島の中央部の南岸の八重根港のそばの高台の上にあり、その付近には大里と呼ばれるが出来た。島役人とその家族の住む家があった。その屋敷の回りには流人が営々として海岸から運び上げた玉石の石垣が出来ている。現在も石垣は大里の中にあり、その中の家には人々が住んでいる。ここに示した写真7枚はその様子を示している。特に最後の写真は江戸時代の島役所の敷地跡で、現在は大里というバス停があるのみで建物は無い。しかし回りの家々は江戸時代そのままの玉石垣で囲まれていて八丈島の昔の面影を残している。見逃せない場所であろう。
撮影日時;1月31日午前10時頃、(終わり)