後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

八丈島の細谷昇司 さんをご紹介いたします

2009年02月11日 | 旅行記

八丈島を訪問される場合は是非、八丈島の歴史民俗資料館の細谷昇司氏をご訪問下さい。

八丈島の歴史や文化についてボランティアでご説明して下さいます。その後もメールでいろいろお教え下さいます。八丈町歴史民族資料館として検索すると連絡方法があります。以下に小生の記事に対して下さいましたコメントを転載しておきます。ながれ というハンドル名でブログを書いていらっしゃいます。

藤山杜人様 
八丈島歴史民俗資料館の者です。先日は、ご来館有難う御座いました。生憎のお天気でしたが、八丈島をお楽しみ戴きましたでしょうか。連絡船は今日も欠航で、4日連続です。写真拝見しました。景色、花共、大変綺麗に撮れているので、写真をご覧になった方が、島に関心を持ってくれると嬉しいのですが。八丈島は絶海の孤島ですが、全国各地と何らかの関係があります。失礼ながら、今御ブログの「推薦したいブログ」の方々のプロフィール欄を拝見しました(仕事柄、来館されたお客様の出身地と八丈島の関係を話さなければならないので、お許し下さい)が、北は宮城県、西の方は滋賀県でしたでしょうか、皆太い糸で結ばれております。今週末の7,8日に芸能文化交流会というのがあり、偶然ですが鬼家雅雄さんのお住みでいらっしゃる北杜市から、根古神社神楽社中の皆さんが、来島され公演しますのでブログに載せたいと思います。長くなりました、失礼します。
投稿
ながれ | 2009/02/02 09:45

また八丈島で水稲を大々的に作っていた昭和初期のころの島の中心部の写真も送って下さいました。この写真の左手前から右奥へ見えます「電柱の列」が続いている山すそに水力発電所がありました。海底電線が出来るずうっと以前から島には電灯がついていたのです。興味深い写真なのでご紹介致します。(終わり)

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原子力発電が好きですか?嫌いですか?(3)高速増殖発電炉「もんじゅ」の建設・運転阻止の訴訟の影響を考

2009年02月11日 | うんちく・小ネタ

「文殊」は発電能力28万Kwの我が国最初の高速増殖炉です。1995年8月運転開始し発電を始めましたが、12月に液体ナトリウーム漏洩・爆発事故を起こして以来13年間運転休止状態で待機中です。この13年間は技術開発が停滞しただけでなく1兆6000万円の無駄な経費が浪費されました。何故このような税金の無駄がおきたのでしょうか?

原因を大雑把に考えると2つになると思います。

1、        1985年建設当初から始まった住民原告団による建設許可無効の国相手の訴訟が紆余曲折をしながら2005年の最高裁判の結審まで続いた。最終的に原告側敗訴になったにもかかわらず現在に至るまで運転再開されていない。その理由は福井県知事を中心にした県議会の慎重な政治的判断のため再開が遅れているためである。

2、        1995年のナトリウーム漏洩・爆発事故のときに管理運営団体の動力炉燃料公社が情報の隠蔽のような不適切極まりない情報開示の順序をとった。そのため官民の間の不信感が一挙に増大した。結果として裁判がより複雑になり2005年に最高裁の判決が出るまで実に20年間を要することになってしまった。

このブログの昨日の掲載記事のように原発反対の人々が多いのも事実です。しかし法治国である我が国で原子力発電を中止させるには建設・運転阻止の訴訟で国側に対して勝訴を得なければならない。

1985年の住民原告団による提訴から紆余曲折を経て実に20年、2005年に最高裁判所は原告敗訴の判決を下した。

「もんじゅ」の建設は動燃が経済産業省へ建設許可を願い出て、建設費も国家予算から支出されたのである。いわゆる国策事業である。

それなのに最高裁判所が原告勝訴の判決を出す筈が無いと言えばそれまでですが。

しかしこの訴訟は「もんじゅ」の運転再開を13年間遅らせた。

しかしその損害は1兆6千万円の税金の無駄使いと高速増殖炉の開発が13年遅れたことと2重の損害をもたらしました。

上記2、の情報隠蔽はナトリウーム漏洩・爆発事故の後のプレスセンターでの動燃幹部の記者会見で起きたことです。

そもそもナトリウーム漏洩・爆破事故とは、漏れたナトリウームが床材の激しく反応して爆発し、放射性物質が工場の屋外へ放出される可能性が大きかった事故です。周りの住民の安全に関係しているのです。

記者会見では最初、事故現場を撮影した1分少々のビデオを公開しました。しかし数日後これが意図的に編集されたビデオであることが発覚し、マスコミの要求に従って動燃はしぶしぶ編集前の生ビデオを公開しました。不適切な対応はこれだけでなく、動燃側から事故発生直後の現場のビデオがあることも発表されたのです。

この動燃の情報公開の仕方は、明らかに事故が軽微のもので大騒ぎするようなものではないと主張しようとしたものです。

これで福井県の住民、全国の住民と動燃や原子力発電所との間の信頼が一挙に崩壊してしまいました。役人はもともと秘密主義で自分たちに都合の悪い情報は一切公開しません。こんな状態では全国に散在している原子力発電所の回りの住民の安全は保障されません。ナトリウーム漏洩・爆発事故は全国的な原発不信感を蔓延させたのです。

これが「もんじゅ訴訟」に付随した事故の重大な影響です。原子力発電所の情報公開へ対して国民的な規模の不信感を植え付けてしまったのです。(続く)


古鎌倉海道の風景ー昔のままの風景を求めて

2009年02月11日 | 写真

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東京都の西の方の郊外の稲城市、府中市、国分寺市、などを車で走っていると彼方此方に「古鎌倉街道」という表示板を見る。車を止めてみるとほんの少しだけ古い道があり回りは新しい住宅に囲まれていて往時の面影が無い。

しかし国分尼寺の西側にある鎌倉街道の跡には、冬枯れの雑木林に囲まれた切り通しの道がさびしく続き、昔の風景が広がっている。

箱根の関所から西にお住まいの人にはあまり興味がないと思うが、鎌倉時代は首都が箱根山を越えて東へ来た歴史的な大転換期であった。室町時代になっても幕府の関東支配の出先機関が鎌倉公方であった。従って、鎌倉街道は江戸幕府が出来るまでの長い間、関東地方の重要な道であった。

関東地方は奈良時代に律令国家が出来たとき国々を結ぶ道路も整備された。鎌倉街道もそれを踏襲している部分が多いという。

この写真の部分も奈良時代の東山道武蔵路(とうさんどう むさしのみち)の上に作られた部分でもあるらしい。このすぐ東を並行してJR武蔵野線が南北へ走っている。奈良時代、鎌倉時代、現代と延々と続く交通路と思うと、ゆえもない懐かしさが体の中に溢れてくる。人々は何代も生まれては死にかわって行く。でもこの雑木林の間の道の風景は1000年以上変わらない。ここは黒鐘公園といい、よく散歩に来るところです。

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。  藤山杜人