後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

ヨットの好きな方へ送る3枚の写真

2009年02月05日 | 写真

年度末が近づいて来たので会社の仕事がとても忙しくなってきた。引退して暇はあるが雪が積もっていて、その上寒くて海に行けない。それでもヨットが恋しい。そのようなヨット好きの方の為に3枚の明るい写真をお送りします。お楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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上の写真は通りすがりの霞ヶ浦の堤防の上から撮った写真です。窓のロマンチックな配列に持ち主の夢多い人柄を想像してしまいます。キャビンの内装もフランス艇のように芸術的なものに違いありません。持ち主へ敬意をお送りします。

下の写真は購入の予定で持ち主に一緒に機走してもらったヤマハ29スカッピーです。大きめのエンジンがキャビン内部の前方にあり、チャートテーブルも完備した外洋仕様の頑丈なつくりのヨットでした。買いたいと言う筆者へ家人が、「貴方、湖でだけセーリングするのにこの艇が要るの?もっとキレイなキャビンの船の方が良いと思うわ」「でも男ならスカッピーを選ぶよ」、「スカッピーなら私は来ないわ。キャビンの内装が暗すぎます」

家人には負けるのが人生円満の鉄則と思いYamaha29スカッピーは諦める。しかし今でも前を通る度に心がうずく。(終わり)(


おたあジュリアの墓と神津島の秘密

2009年02月05日 | 旅行記

1970年に仕事を一切止めた。前々から行きたいと思っていた辺鄙な土地を訪ねる旅をはじめた。まず、伊豆七島の神津島へ遊びに行った。東京から高速水中翼船で4時間、遥か外洋に浮かぶ小さな火山島。山ばかりで平地が無い。船の着けられる簡単な桟橋が島の東西の両側にある。風向きによってどちらかを選ぶ。一人旅の気安さで島の民宿に投宿する。燗酒を傾けつつ、宿の主人から島の昔話を聞く。明日、見物すべきところも説明しくれる。そして、急に声をひそめて言う、

「朝鮮風の石碑が岬に有りますよ。おたあジュリアの墓です」

「それは誰ですか?」ーーーーこの先は、2008年5月20日掲載の記事に続きます。

「流人を尊敬するローカル文化」のもう一つの実例なので、ここに一部を再掲載しました。

(終わり)


流人を尊敬するローカル文化ー八丈島

2009年02月05日 | 日記・エッセイ・コラム

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上の写真は1606年に八丈島へ流人として到着した宇喜多秀家の御墓です。現在でも毎朝活けたような瑞々しい切り花が飾ってあります。毎日、切り花を供えている様子です。

秀家の回りにある縁者の小さな墓石の前にも切り花が供えてあります。いったい誰が供えるのでしょう?

秀家は秀吉の一字を貰った五大老の一人で朝鮮出兵で活躍し、帰国後は岡山城の大改修をし、備前・美作57万石の領主でしたが関ヶ原で敗将になってしまいました。八丈島へは長男の孫九郎や前田藩の医師、村田道珍斎や総数13名で島へ到着しました。流罪には正妻の豪姫以外の長男、医師、その他の付き人が許されたのです。その後の差し入れも許されました。

豪姫の実家は前田藩で、実子の居ない秀吉の養女になり、秀吉の重用する秀家の正妻になったのです。

前田藩は秀家存命中は勿論、子孫の宇喜多氏へ、2年毎に白米70俵と35両の現金、衣類、薬品、雑貨などを仕送りしていました。この仕送りは明治2年赦免になり東京へ帰るまで続きました。従って宇喜多秀家は島の人々にとっては感謝、尊敬される存在でした。

宇喜多一族は次第に増え、島の重要な家族として人々に大切にされました。

秀家のお墓の前の切り花だけではありません。歴史民俗資料館には宇喜多秀吉の関連資料だけを展示している一つの部屋があります。

八丈島へは1917人の流人が来ました。粗暴犯の他に江戸幕府や仏教界での権力闘争に敗れた政治犯も多かったのです。これらの人々は知的レベルも高く、島の文化へ大きな貢献をしました。歴史民俗資料館発行の資料解説No.5には20人ほどの流人の名前を記し、島への貢献の内容を説明しています。カイコと、黄八丈と呼ばれる絹織物を伝えた人、サツマイモを伝えた流人、薩摩焼酎の作り方を伝えた人、詩歌管弦の指導をした風流な流人、などなどの名前を明記し感謝しています。中には大工の棟梁も居て、島でも弟子をとり、多くの大工を育てた人もいます。

これらを総称して「流人文化」といい、八丈島の人々は現在でも誇りにしています。

最後に今回欠航のため島に居続けた間に感じたことを記します。孤島に流されたような気分になります。すると周りの人々すべてが大切な存在として感じられるのです。とくに海を渡って来た人々を尊敬したくなります。大島や神津島くらい伊豆半島へ近いとそんな気分にはなりません。太平洋に浮かぶ孤島だからこそ人間が一人一人が大切に思えるのです。

八丈島のローカル文化は欠航という目に会って初めて少し実感したような気分になりました。

(終わり)