何年か前に上田の近くにある信濃の国の国分寺跡を見に行った。広々とした土地に、礎石の配列が美しい。 しかし良く見ると、その配列を情け容赦も無く分断して国鉄の信越本線のレールが黒々と伸びている。レールの向こうにも整然と礎石が並んでいる。
1月27日午後に武蔵のくにの国分寺と国文尼寺の跡を丁寧に見に行ったところ、やはりJR武蔵野線が両方の寺を分断し、尼寺の中を通っていることが分かった。どうして鉄道が国分寺の遺跡をこわしてしまったのだろう?少し考えて見た。
聖武天皇の741年の勅令で国分寺が出来た。場所を決める時、律令国家の重要な街道のそばに配置することを決めている。
明治維新後、鉄道を作る技師はそこに国分寺が有ったことなど意にかいさない。一番水平でレールの敷きやすいところを選んだのだろう。当時は欧米の近代文明の輸入が緊急の国家的目的であった。文化遺産の保存など考える人がいなかったのだろう。
人々が道路や鉄道のために都合の良い場所を決めるとき、741年頃も明治維新後も同じということが興味深い。
そして同時に、人間は生活の便利さのためには何でもするものだ。と、残念にも思う。
危険な原子力発電もその便利さ故に普及しているのかも知れない。そんな反省をしながら冬の陽を楽しみながら散歩をして来た。(撮影者:Mrs.藤山)
今日も皆さまのご健康と平和をお祈りいたします。 藤山杜人
簡潔にして明快な反対意見を頂きましたので、ご紹介いたします。
=======annanさんから投稿されたコメントです======
私は原子力発電は否定します。
どのようなシステムも必ず事故は起こします。事故の発生は多くの場合
システム固有の問題よりもそれを扱う人間の問題の方が大きいでしょう。
いずれにせよ全てのシステムは事故が起こることを前提とすべきです。
だからこそ、事故の起こる確率ばかりが問題なのではなく、
事故が起きたときの影響度、致命度が重要です。これを以て安全度と言うのだと思います。この安全度を一定基準に確実に担保できないシステムは、より低い性能でも他の安全度の高い代替システムに置き換えるべきです。まして原子力発電は廃棄物の経時的な問題や自然界への影響の検証もできていません。
便利さのためだけに原子力発電を推進することは、地球を人類のためだけの環境と錯覚している我々の傲慢です。我々は自身の生活の都合に自然や環境を付き合わせている訳ですが、それでも超えてはいけない線があります。それを超える可能性が否定できない時には、我々が変わっていく、時には引き返していく謙虚さが必要です。
・・・と思っております。
投稿 annan | 2009/02/09 21:12
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藤山杜人の感想:
これをご紹介する目的は、次に取り上げる高速増殖炉「もんじゅ」の建設中止訴訟の説明への導入に良いと思ったからです。
ここでは一市民としての感想だけを述べて見たいと思います。人間が進歩させた科学は自然現象のごく一部しか解明していません。科学には大きな限界があると思います。したがって理屈や論理で予測したことも間違うことが多いものです。上の文書を読むと、この直観的な感じ方が案外正しいのではないかと感じます。
それではどうすれば日本から既に存在している原子力発電所を徐去することが出来るのでしょうか?
もんじゅ訴訟は原子力発電へ反対する民間人が国を相手に起こした、「もんじゅ建設許可取り消し」の訴訟です。主に2つの理由があります。従来の水・蒸気冷却材の発電でなく危険な液体ナトリウームの循環技術を用いていて事故の可能性が大きい。更に原告側の主張によると、プルトニューム燃料を増殖する炉なので原子爆弾製造へ道を開く恐れがあります。
裁判は一審原告敗訴、二審原告勝訴、最高栽判決では原告敗訴で「もんじゅ」の運転再開の道が決まりました。しかし最高裁の最終決定が2005年にあったのにも関わらず、もんじゅの運転は再開されていません。
次回の「原子力発電が好きですか?嫌いですか?(4)では「もんじゅ訴訟」の色々な影響を考えtみようと思います。(終わり)