ネットで知り合った人で、種々の国々の人間に対する理解の仕方や民族特有の文化へたいする感じ方が自分と同じ人々は躊躇なく「友人」として心に刻み込みます。実際に会ったことが無くても「心の友人」になります。例えばタイとネパールに住んでいるHikarunoさんはそういう友人です。帰国された折にお会いし、話し合ったこともあります。
もう一つの例を上げますとベルリンに住んでいる中村真人さんです。
上の左の写真は1月29日に八丈島の植物公園の中にある展示館で、急な雨に降り込められてコーヒーを飲みながら窓の外の風景を撮ったものです。その風景をみながら雪のベルリンに住んでいる中村さんのことをあれこれ考えていました。
ドイツが起こしたホロコーストへ対する感じ方に共感を覚え、コメントの交換をした方です。今頃は雪が降りしきるベルリンの古い町を散歩しているのだろう、と考えていました。東京に帰って、彼のブログを見たら、上の右のような寒い川沿いの道を散歩している写真が掲載してありました。この写真の彼の説明文を転載いたします。
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雪が降りしきる今日の午後、U2のシュピッテルマルクト(Spittelmarkt)駅で降りて、ベルリンの古層ともいえる地域を散策してみた。この駅からメルキッシュ岸(Märkisches Ufer)に沿った道は、ガイドブックなどで取り上げられることは普通まずないが、なかなか情緒があって私は好きである。写真の風景を後ろ目に見ながら、東に向かって歩いてみよう。
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お会いしたことが無いが、自分のブログの記事へ毎回、内容の深いコメントを2007年11月から2008年8月まで毎日ご投稿下さいました高山さんとSHANTIANさんのお二人のことは忘れられません。コメンントは2008年の8月に突然無くなりましたが、それまでの好意溢れる意義深いコメントには非常に勇気付けられました。そのお陰で私はネット世界に対して深い信頼感を持つことが出来たのです。お会い出来ませんでしたが、このお二人は私の宝のような友人です。
ネットはバーチャル世界だから真の友人は出来ないという考えもあります。
しかし私はネットでは年齢、性別、職業、服装、容姿に関係なく純粋な気持ちの交流が可能なので実社会では得られない種類の真の友人が出来ると信じています。今日、ここで例として名前を上げた人は4人だけです。しかし私はネットの上で多くの友人を持っています。
私の個人的な考えですが、インターネットの世界でも真の友人ができると信じています。
(終わり)
ネットの上での友人とはなんでしょうか?という文章へ対して7つのコメントを頂きました。少し省略してその趣旨を下のご紹介いたします。
個人的な好みを言いますと、(コメント4)と(コメント6)の考え方が好きです。私もそのように考えています。もっと踏み込んで申し上げると、私はネットでコメントを交換したり、メールを交換した方々の全てをかけがえの無い友人と思っています。この点は続報でご説明いたします。
皆様がどのようにお考えでしょうか?
今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。--藤山杜人ーー
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(コメント2)
改めて、友人とは何だろうかと考えさせられました。
小生が思う友人とは、自分という存在を知ってもらい理解と共感をともにして頂くことができる人と位置づけています。
現在はネットという便利な手段があります。その人たちとの輪を出来る限り広げたいという思いです。これからの残りの人生で新しく何人の方々と友人としてのお付き合いが頂けるのだろうか、と考えてしまいました。
(コメント3)
内容を読みました。有難う御座います。
しかし、ネット上には「友人」は居ないと思います。
(有り得ないと思います)
あくまでも バーチャルの世界でしょうから・・・。
リアル社会でも、本当の「友人」は1人か2人ですね。
藤山さんは仙台の方ですか?(仙台弁を忘れないでね)
(コメント4)
私の心の中で友人と決めた方々は、永遠に嫌いにならないと想う方々です。縁が遠のいても心にいてくれていますね。ネットもリアルも違いは無いです。
PCの場合でも、向こうには人が居ますのでリアル同様に話します。ただ顔が見えない分、相手の気持ちを察しながら慎重にならざるをえないですね。反面、飾りはゼロからスタート出来る良さもあります。折角貴重な時間を割きPCに向かう以上、たかがで無く、されどネット友と想いお付き合いさせて頂きたいと今迄もこれからも思っております。
(コメント5)
――「自分が今まで随分と狭い世界しか知らなかった」、という事実に気が付きます。 ――中略―
>同じような考えの学生が集まる学校、そして同じ業界の会社の中での知り合いの世界はとかく狭くなりがちです。――中略――――
>インターネットの甚大な効果の一つは学校や業界、職業の壁を崩す効果ではないでしょか?
―――藤山さんの文章の一部でしたーーーーーーーーーー
私も同感です!
ずっと同じ友達と付き合い、友情を大事にすることも大切ですが、 ついつい自分たちだけの世界に閉じこもりがちになりかねません。
ともすれば人間は長くいきていると、自分の考えが固まりがちになりますが、インターネットの世界からは色々な人が有ると言うことを学べます。
それは色々な人を見ることにより、改めて自分と言う人間を再認識できると言う利点も有るように思います。
常に自分の中で見失ってはいけないものはしっかり保ち、流動的に取り入れたり出したりすることも生き方として大切なのではないかと感じています。
藤山杜人さんのように、こうして疑問を投げかけて頂くとまた自分なりに自分の方向を考えざるを得ません。私も焦らずゆっくりと歩んでゆきたいと思っています。
(コメント6)
藤山杜人さま、
「友人」は何人いますか?
答えになっていないかもしれませんが、「友人」に何を求めるのかによって、その数は違ってくるように思います。
多くを求め(物質的なものではなく、精神的なもの。人生の指針や宗教的救済なども)、また多くを与えて悔いのない関係を望むのであれば、その数は限りなくゼロに近くなるでしょう。
さらに、「友人」は「友人関係」とは同義であることから当然のことながら、友人となると同時にそこには新たな人間「関係」が発生することになります。
「関係」の発生は、良いことばかりであるとは限りません。
また逆に、よい関係であろうとする・あるいはよい関係が結ばれれば結ばれるほど、必ずやってくる「離別」は耐えがたいものになるわけで、その理不尽さを自分の中でどのように納得するか・・・という問題もあります。
けれど、人生なにごとも「縁」
「お釈迦様のはからい」とは、三千年の歴史を持つ中国の人たちが好きな言葉ですが、まさにその通りだと思います。私はその「はからい」を素直に頂戴したいとおもいます。
で、なんとなし」に・・・
「友人」も「夫婦」と同じように、片目を閉じてお付き合いするのがいいのかもしれませんね。
(コメント7)
私はネット上で知り合った人は【知人】と考えています。
友人は出会いあり、じかに話をして意気投合する事で【友人】になると考えています。