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明治初期に活躍した我が国の油絵の先駆者の一人で、この展覧会は彼の作品132点を展示しています。圧倒的な感動を覚えました。
作品は肖像画や海辺の風景画、静物画など多数です。特に一メートル二十センチの荒巻鮭の絵はダイナミックなタッチながら、鮭の頭や肉や皮の質感が繊細に描いてあり、息を飲んでしまいました。上の3本の鮭の絵の所有者は左から順に山形美術館、東京藝術大学、笠間日動美術館です。それぞれが傑作です。
展示の仕方が順序よく、彼の画風の変化が分かり、一段と興味が湧いてきます。それにしても時々、肩の力を抜いた絵も混じっていて、彼の人間的な息づかいを感じさせています。
高橋由一の絵画をあちこちから借り出して、132点もの絵を一堂に展示する展覧会を見るのは、老人の私にとっては最後になると考えながら帰って来ました。
是非、お出掛けになることをお薦め致します。
場内は撮影禁止なので、帰宅後、購入して来た絵ハガキをデジカメで撮りました。不鮮明ながら上に示した絵画がその写真です。
場所は東京藝術大学大学美術館にて、4月28日より6月24日(日)まで開催。入場料は1300円です。展覧会公式サイト:http://yuichi2012.jp
参考資料:
「高橋由一の生い立ちと洋画家としての活躍」(Wikiipedeaの高橋由一より転載)
高橋 由一(たかはし ゆいち、文政11年2月5日(1828年3月20日) - 明治27年(1894年)7月6日)は江戸生まれの日本の洋画家。
佐野藩(佐倉堀田藩の支藩)士高橋源十郎の嫡子として、江戸大手門前の藩邸で生まれる。家は代々新陰流免許皆伝で、藩内で剣術師範を勤めた。この頃婿養子だった父は母と離縁し、由一は祖父母と母に育てられる。天保7年(1836年)藩主堀田正衡の近習を務め、のち近習長となり図画取扱を兼務したという。
わずか数え2歳で絵筆を取って人面を描き、母たちを驚かせたという。12,3歳頃から堀田家に出入りしていた狩野洞庭、ついで狩野探玉斎という絵師に狩野派を学ぶ。しかし、当時は祖父について家業の剣術指南役を継ぐための剣術修行と藩務に忙しく、絵画修業は休みがちになってしまったため、探玉斎の門を退き以後独学で画を学ぶ。弘化4年(1847年)20歳の時に描いた広尾稲荷神社拝殿天井画「墨龍図」は、狩野派の筆法で力強い龍を描いており、すでに日本画家として充分な力量を備えていた事が窺える。この頃になると、由一が絵の道に進むことを許さなかった祖父も、由一が生来病弱で剣術稽古も休みがちになっていったことを見て、ある時突然剣術の後継者は門人から選ぶので、武術を捨て画学の道に進むことを許される。親戚の紹介で文晁系に属する吉澤雪菴に師事するが、やはり藩の勤務が忙しく充分に学べなかったという。
ところが嘉永年間のある時、西洋製の石版画に接し、日頃目にする日本や中国の絵とは全く異なる迫真的な描写に強い衝撃を受ける。以後、洋画の研究を決意し、生涯その道に進むことになる。文久2年(1862年)に蕃書調所の画学局に入局し、川上冬崖に師事した。本格的に油彩を学ぶことができたのは、慶応2年(1866年)、当時横浜に住んでいたイギリス人ワーグマンに師事したときで翌年にはパリ万国博覧会へ出展している。
明治時代に入り民部省の吏生や大学南校の画学教官など官職を務めるが明治6年(1873年)には官職を辞して画塾である天絵舎を創設し、弟子第一号の淡島椿岳や原田直次郎、息子の高橋源吉、日本画家の川端玉章、岡本春暉、荒木寛畝ら多くの弟子を養成する。明治9年(1876年)には工部美術学校教師として来日したイタリア人画家アントニオ・フォンタネージに師事する。
明治12年(1879年)に金刀比羅宮で開かれた第2回琴平山博覧会では天絵舎に資金援助してもらうため作品を出品し、会期終了後に全作品を金刀比羅宮に奉納した。そのため金刀比羅宮は由一の作品を27点収蔵しており、現在は金刀比羅宮境内にある由一の個人美術館「高橋由一館」に展示されている。
人物、風景などの作品もあるが代表作として筆頭に挙げるべきは『鮭』であろう。極端に縦長の画面に縄で吊るされ、なかば身を欠き取られた鮭のみを描いたこの作品は西洋の模倣ではない文字通り日本人の油絵になっていると評されている。明治12年(1879年)には元老院の依頼で明治天皇の肖像も描いた。
明治14年(1881年)より山形県令であった三島通庸の要請により、三島の行った数々の土木工事の記録画を描いている。代表的なものとして『栗子山隧道図西洞門』がある。
明治27年自宅で逝去。法名は実際院真翁由一居士。墓所は渋谷区広尾の臨済宗祥雲寺。回想記に『高橋由一履歴』がある。洋画家の安藤仲太郎は甥。