後藤和弘のブログ

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中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

高橋由一の絵画展を見てきました

2012年06月05日 | うんちく・小ネタ

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明治初期に活躍した我が国の油絵の先駆者の一人で、この展覧会は彼の作品132点を展示しています。圧倒的な感動を覚えました。

作品は肖像画や海辺の風景画、静物画など多数です。特に一メートル二十センチの荒巻鮭の絵はダイナミックなタッチながら、鮭の頭や肉や皮の質感が繊細に描いてあり、息を飲んでしまいました。上の3本の鮭の絵の所有者は左から順に山形美術館、東京藝術大学、笠間日動美術館です。それぞれが傑作です。

展示の仕方が順序よく、彼の画風の変化が分かり、一段と興味が湧いてきます。それにしても時々、肩の力を抜いた絵も混じっていて、彼の人間的な息づかいを感じさせています。

高橋由一の絵画をあちこちから借り出して、132点もの絵を一堂に展示する展覧会を見るのは、老人の私にとっては最後になると考えながら帰って来ました。

是非、お出掛けになることをお薦め致します。

場内は撮影禁止なので、帰宅後、購入して来た絵ハガキをデジカメで撮りました。不鮮明ながら上に示した絵画がその写真です。

場所は東京藝術大学大学美術館にて、4月28日より6月24日(日)まで開催。入場料は1300円です。展覧会公式サイト:http://yuichi2012.jp

参考資料:

「高橋由一の生い立ちと洋画家としての活躍」(Wikiipedeaの高橋由一より転載)

高橋 由一(たかはし ゆいち、文政11年2月5日1828年3月20日) - 明治27年(1894年7月6日)は江戸生まれの日本洋画家

佐野藩佐倉堀田藩の支藩)士高橋源十郎の嫡子として、江戸大手門前藩邸で生まれる。家は代々新陰流免許皆伝で、藩内で剣術師範を勤めた。この頃婿養子だった父は母と離縁し、由一は祖父母と母に育てられる。天保7年(1836年)藩主堀田正衡の近習を務め、のち近習長となり図画取扱を兼務したという。

わずか数え2歳で絵筆を取って人面を描き、母たちを驚かせたという。12,3歳頃から堀田家に出入りしていた狩野洞庭、ついで狩野探玉斎という絵師に狩野派を学ぶ。しかし、当時は祖父について家業の剣術指南役を継ぐための剣術修行と藩務に忙しく、絵画修業は休みがちになってしまったため、探玉斎の門を退き以後独学で画を学ぶ。弘化4年(1847年)20歳の時に描いた広尾稲荷神社拝殿天井画「墨龍図」は、狩野派の筆法で力強い龍を描いており、すでに日本画家として充分な力量を備えていた事が窺える。この頃になると、由一が絵の道に進むことを許さなかった祖父も、由一が生来病弱で剣術稽古も休みがちになっていったことを見て、ある時突然剣術の後継者は門人から選ぶので、武術を捨て画学の道に進むことを許される。親戚の紹介で文晁系に属する吉澤雪菴に師事するが、やはり藩の勤務が忙しく充分に学べなかったという。

ところが嘉永年間のある時、西洋製の石版画に接し、日頃目にする日本や中国の絵とは全く異なる迫真的な描写に強い衝撃を受ける。以後、洋画の研究を決意し、生涯その道に進むことになる。文久2年(1862年)に蕃書調所の画学局に入局し、川上冬崖に師事した。本格的に油彩を学ぶことができたのは、慶応2年(1866年)、当時横浜に住んでいたイギリス人ワーグマンに師事したときで翌年にはパリ万国博覧会へ出展している。

明治時代に入り民部省の吏生や大学南校の画学教官など官職を務めるが明治6年(1873年)には官職を辞して画塾である天絵舎を創設し、弟子第一号の淡島椿岳原田直次郎、息子の高橋源吉日本画家川端玉章岡本春暉荒木寛畝ら多くの弟子を養成する。明治9年(1876年)には工部美術学校教師として来日したイタリア人画家アントニオ・フォンタネージに師事する。

明治12年(1879年)に金刀比羅宮で開かれた第2回琴平山博覧会では天絵舎に資金援助してもらうため作品を出品し、会期終了後に全作品を金刀比羅宮に奉納した。そのため金刀比羅宮は由一の作品を27点収蔵しており、現在は金刀比羅宮境内にある由一の個人美術館「高橋由一館」に展示されている。

人物、風景などの作品もあるが代表作として筆頭に挙げるべきは『鮭』であろう。極端に縦長の画面に縄で吊るされ、なかば身を欠き取られた鮭のみを描いたこの作品は西洋の模倣ではない文字通り日本人の油絵になっていると評されている。明治12年(1879年)には元老院の依頼で明治天皇の肖像も描いた。

明治14年(1881年)より山形県令であった三島通庸の要請により、三島の行った数々の土木工事の記録画を描いている。代表的なものとして『栗子山隧道図西洞門』がある。

明治27年自宅で逝去。法名は実際院真翁由一居士。墓所は渋谷区広尾臨済宗祥雲寺。回想記に『高橋由一履歴』がある。洋画家の安藤仲太郎は甥。


孫文と毛沢東を知れば日本が見えてくる(2)孫文の失敗と毛沢東の成功

2012年06月05日 | 日記・エッセイ・コラム

1912年に孫文が初代中華民国臨時大総統に就任してから、1949年に毛沢東が北京で共産党中国を樹立するまでの37年間は、もろもろの軍閥の権力闘争の時代です。

この37年間の中国の政治情勢は日本人にとって大変理解が困難です。

しかし、この期間を一言で言えば、各地に軍閥政権が独立し、群雄割拠の状態が続いた時代だったのです。

中国は統一国家ではなくなり地方ごとに独立した分裂国家になっていたのです。その中で比較的大きな勢力を持っていた国民党の独裁者、蒋介石が中華民国を代表して日本と争っていたのです。

Sun_yatsen_and_chiang_kaishek1 左の写真の右に座っているのが孫文で、左に立っているのが蒋介石です。

蒋介石は結果的には孫文の革命を継承し、中華民国を独裁的に統治しました。しかし孫文の考えていた議会制民主主義による共和国の実現は無に帰したのです。

孫文の理想は達成出来ず、共和国樹立は失敗したのです。

その一方で、1917年のロシア革命の成功に端を発する中国共産党の軍事作戦が次第に勢力を広げて行ったのです。

共産党は国民党と合作し、協力しあって日本軍と戦いました。

1945年に日本がアメリカによって滅ばされて敗戦になり、中国大陸から引き上げると国民党と共産党の国内戦争は熾烈になります。しかしロシアの満州侵攻や種々の支援に助けられた中国共産党軍は遂に国民党軍と蒋介石を台湾へ追い出してしまったのです。

そして毛沢東国家主席は1949年に北京の天安門前で大群衆へ向かって中華人民共和国の独立を宣言し、全国を統一し共産党独裁政権を樹立したのです。

1912年の清朝廃絶以来、はじめて中国が統一国家になったのです。チベットやウイグル地方も併呑し、領土も拡大したのです。その結果、毛沢東は偉大な指導者として、国民の尊敬の的になったのです。中国はロシアについで広大な共産主義の国になったのです。

これは人類の政治の歴史の画期的な出来事でした。

さて中国大陸のこのような政治情勢は日本にとってどのような影響があったのでしょうか?1912年から1945年までは日中戦争のあった期間が含まれます。

中華民国が強力な統一国家でなかったので日本軍は有利に侵攻出来たのです。中華民国政府を重慶まで追いつめて行きました。しかしそれは中国側の戦略でもあったのです。強く出れば引っ込む。そして日本軍の占領地区の背後に回り、ゲリラ的に攻撃する。

日中戦争は負け戦ではありませんが、泥沼に足を取られた形になり、何時までも続いたのです。特に共産軍は八路軍と呼ばれゲリラ戦を得意としていたのです。日本軍の死傷者は決して少なくなかったのです。

その一方、日本は軍閥の一人と手を組んで、日本の言いなりになる南京政府を作りましたが、それもあまり助けにはなりませんでした。

その後、1949年の共産党中国の樹立は日本とアメリカとの強い軍事同盟の締結をもたらし、厳しい冷戦構造が1976年の日中国交回復まで続いたのです。

一方、中国の日本に対する経済的影響を見てみましょう。

中国の支援で起きた朝鮮動乱とベトナム戦争は日本へ軍需景気をもたらし、日本の経済復興と発展に大きな貢献をしたのです。

以上は中国大陸で何が起きて、それが日本へどのような影響をおよぼしたかを概括的に書いたものです。それを見ると中国で起きたことが20世紀の日本へ非常に大きな影響を及ぼしたことが明快に分かります。

従って、中国の影響は21世紀でも変わることなく大きいと考えるべきと思います。

最近の中国海軍の太平洋への進出や、世界2位の経済力は日本へ甚大な影響を及ぼしています。

中国で将来起きることは日本に大きな影響を与えるのが必然です。ですからこそ日本人は中国の国内問題にも常に注意を払って観察し、分析し、評価すべきなのです。(続く)

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。

後藤和弘(藤山杜人)