後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

苦難の歴史を持つ朝鮮族を理解しよう・・・朝鮮族で中国共産党員になった金さんから聞いた話

2012年06月19日 | 日記・エッセイ・コラム

朝鮮半島は中国に接し、昔から中国の歴代王朝の圧迫や侵略を受けてきました。また日本は海を渡って百済を助け高句麗を攻めました。近世になってからは秀吉軍が侵入し朝鮮半島の全域の寺を徹底的に焼き尽くし、陶工や職人達を多数拉致し、連れ帰りました。北に強大な中国、南には日本という場所にある朝鮮の歴史は苦難の連続でした。

しかし朝鮮の苦難は日清戦争や日露戦争のあと一層酷いものになったのです。日本が朝鮮を武力併呑してしまったのです。日本の統治は過酷を極め、全住民の名前を日本風に変えさせ、日本語の使用を強制したのです。朝鮮文化の抹殺をしようとしたのです。

1981年、中国の中国の瀋陽へ行ったとき親しくなった金教授の両親は、日本によって旧満州へ追われ満州開拓へ協力したそうです。終戦後、旧満州が中国共産党の支配下になった時、金さんは共産党員になったという。日本の支配と中国の支配の両方を体験した朝鮮族です。中国国籍はすぐ貰えたそうです。旧満州には多くの朝鮮人が住んで居たので、現在の中国には朝鮮自治区が数多く存在しています。中国政府によって朝鮮語と朝鮮風の生活が認められているのです。

日本と中国のどちらの支配が住みやすいですか?と金さんへ聞いたところ、言下に中国です、と言いました。日本は朝鮮を武力併呑した後、多くの朝鮮人を日本本国だけでなく樺太、満州、南洋諸島へ連れていって労働者として使役しました。兵隊へも駆り出して使ったのです。戦死者も多く、その上、1945年8月6日にソ連が樺太や旧満州へ侵入してきた時、日本人は朝鮮人を置き去りにして引き上げてしまったのです。

中国人の他民族の支配は長い歴史があり、支配の仕方が出来上がっている。食生活、生活習慣、宗教は可能なかぎり自由にするという。金さんの勤めている大学の学生食堂には、回族学生ための料理人が居て食堂も別棟になっているという。

日本の支配の仕方は、創氏改名のように名前から変えさせ、朝鮮語を禁止したのです。現在の日本人はその歴史を忘れるべきではありません。

特に韓国とは仲良くすべきです。

北朝鮮は手のつけられない独裁国家なのでどうしようもありません。困ったものです。

在日韓国人・朝鮮人に対する差別もまだ有るようです。一切の差別を無くせば、日本人にとっても、もっと住みよい国になると思います。

(2008年に、小金井公園で撮った李朝宮廷芸能の写真を挿絵として添えます)

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小樽のニシン倉庫が巨大なガラス細工品の店になった・・・時代ですね!

2012年06月19日 | うんちく・小ネタ

小樽の運河にあがった大量のニシンをトロッコで運び、保管しておく「北一」という巨大な倉がありました。今でもトロッコのレールが店内に残っています。

一番上に写っている北一倉庫が5棟くらい横に並んでいます。

現在は内部が全てつながっていて、巨大なガラス細工の店になっています。

ニシン倉がガラス細工品の店に化けるたのです。しみじみ時代の流れを感じさせ、感慨深い思いをしました。

撮影は2010年6月17午後4時頃でした。

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東京、神田にニコライ堂を建てた聖ニコライとはこんな人でした

2012年06月19日 | 日記・エッセイ・コラム

ニコライは1836年にロシアのある農村で生まれ、明治維新の7年前の1860年、24歳の時日本へ宣教のために行く決心をします。着いた1861年はまだ江戸時代です。翌年、函館に着いてから終生日本に居ました。もっとも短期間、2度、祖国へ帰ったことはありましたが。

 着いた1861年はまだ江戸時代です。それから51年後の1912年、75歳で永眠し、谷中の墓地に葬られ日本の土になりました。

函館着任後に血の滲むような努力をし日本語を習得します。書道も研鑽し、日本の歴史や佛教も勉強しました。古事記や日本書紀も読破する勉強家でした。

ニコライが日本を愛する心は強く、数々の感動的なエピソードが残っています。

今日はその中から一つをご紹介します。

1904年、1905年は日露戦争でした。戦争勃発と共に在日ロシア人は一斉に帰国して行きます。ロシア公使のローゼン男爵もニコライに帰国するように薦めます。ニコライは静かに断ったそうです。そして言うのです、「私はロシアに仕える者ではない。主ハリスト(主キリスト)に仕える者である」と。

残留した理由は、日露戦争の間、日本人信者が迫害されるのを予想し、彼らを勇気づける為に残ったと考えらています。

案の定、ロシア正教の日本人信徒は「露探」(ロシアのスパイ)と罵倒され、聖堂や集会所が暴徒の襲撃を受けたのです。

ニコライは教書を発表し信徒を慰めます、

「我々には地上の祖国の他に、天に国がある。天の国には民族の別無く皆が平等に生きている。なぜなら全ての人々は皆同じ父(神)の子であり、お互いは皆兄弟であるからです。我々の属する国は主である神が作った教会なのです。信者は平等な会員なのです。天の神、すなわち我らの父の一つの家族としてとどまり、その家族としての義務をそれぞれに果たすようにしようではないか!」

ニコライは日本人信徒の一人一人を強く愛していたのです。ロシアへ逃げ帰るなど考える筈がありません。

1912年、持病の心臓病が悪化し、聖路加病院で天に帰りました。駿河台のニコライ堂から谷中の墓地まで、葬列を見送る人垣が沿道の両側を埋め尽くしました。明治天皇からの「恩賜の花輪」を抱きかかえた人が葬列の中に見えます。(私は葬列の写真10枚ほどを見ながらこの文章を書いています)。 

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

WikipedeaNikolaikasatkin1 でニコライ・カサートキンを検索すると以下の紹介があります。取りあえずここに転載しご紹介いたします。

=======ニコライの生い立ち=========

スモレンスクベリスクベリョーザ村の輔祭、ドミトリイ・カサートキンの息子として生まれる。母は五歳のときに死亡。ベリスク神学校初等科を卒業後、スモレンスク神学校を経て、サンクトペテルブルク神学大学に1857年入学。在学中、ヴァーシリー・ゴローニンの著した『日本幽囚記』を読んで以来日本への渡航と伝道に駆り立てられたニコライは、在日本ロシア領事館附属礼拝堂司祭募集を知り、志願してその任につくことになった。在学中の1860年7月7日(ロシア暦)修士誓願し修道士ニコライとなる。同年7月12日(ロシア暦)聖使徒ペトル・パウェル祭の日、修道輔祭叙聖(按手)され、翌日神学校付属礼拝堂聖十二使徒教会記念の日に修道司祭に叙聖された。

1861年函館ロシア領事館附属礼拝堂司祭として着任。この頃、新島襄らから日本語を教わる。以後精力的に正教の布教に努めた。函館にて日本ハリストス正教会の初穂(最初の信者)で後に初の日本人司祭となる沢辺琢磨らを獲得したのち、懐徳堂中井木菟麻呂らの協力を得て奉神礼用の祈祷書および聖書(新約全巻・旧約の一部)の翻訳・伝道を行った。1869年、1879年に二度帰国。それ以降は日露戦争中を含め、日本を離れることなく、神田駿河台の正教会本会で没した。谷中墓地に葬られる。

1970年谷中墓地改修の折、棺を開けると不朽体が現れた。同年ロシア正教会はニコライを「日本の亜使徒・大主教・ニコライ」、日本の守護聖人として列聖した。日本教会が聖自治教会となったのはこのときである。ニコライの不朽体は谷中墓地のほか、ニコライ堂(大腿部)、函館ハリストス正教会などにあり、信者の崇敬の対象となっている。

関東大震災で焼失したといわれていたニコライの日記は中村健之介によって発見され、ロシア語原文版が2004年に刊行された(Dnevniki Sviatogo Nikolaia Iaponskogo, 5 vols. St. Petersburg: Giperion, 2004)サ。注解を加えた日本語全訳は2007年に刊行(『宣教師ニコライの全日記』教文館、全9巻)。

列聖以降、日本の亜使徒聖ニコライ聖ニコライ大主教と呼ばれる。記憶日(祭日)は2月16日(ニコライ祭)。