後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

晴天の函館湾と土方歳三の松前藩征服戦争、そして馬上の戦死

2012年06月23日 | 日記・エッセイ・コラム

先程、梅雨時の鬱々とした雰囲気を写真に撮ってみました という題で暗い写真をお送りしました。

しかしやはり明るい風景がお好きな方々のために、晴天の下で碧く光る函館湾の風景写真をお送り致します。

海の向こうに見える山々は松前に行くとき越える峠のある山地です。山の向こう側に松前があります。

明治維新のときの函館戦争では土方歳三一行の幕府軍がこの山を越して松前藩を攻め落としたのです。

そしてその5ケ月ほど後に明治政府軍が江差に上陸して、この山並みを越えて函館へ攻め込んだのです。

土方歳三は函館の街路を馬に乗って奮戦中に銃で撃たれ戦死します。そして五稜郭にこもった榎本武揚に指揮された江戸幕府軍は降伏したのです。幕府軍の死者800人。政府軍の死者300人でした。

そんな激しい市街戦のあった函館も現在は静かに海の右側に横たわっています。

6月17日に撮影しました。

K_036

K_037

K_038


梅雨時の鬱々とした雰囲気を写真に撮ってみました

2012年06月23日 | 写真

梅雨の間は毎日曇りや雨で、昼間でも暗いものです。気圧が低くて、湿気が高いので体調も良くありません。暗い気分です。鬱陶しい気分です。

そこで気分転換のために、そのような感じを写真で表現してみることにしました。

鬱蒼とした森の広がる神代植物公園に行くことにしました。薄暗い林の中に暗い気持ちで咲いているアジサイの花々を撮ることにしました。暗欝な木々の向こうに広がる睡蓮の池の写真も撮ることにしました。車で20分位のところにある植物園です。

私の意図をクドクド説明して家人に写真を撮って貰いました。私は撮影の場所と構図を考えました。

下の写真群が作品です。

梅雨時の鬱々とした雰囲気が写真に写っていれば嬉しく思います。

写真を沢山撮って、この文章を書いていましたら大変元気になってしまいました。

皆様もお元気になりますようにお祈りいたします。

112

何時もは明るい太陽が射している中央広場も、今日はこんなに暗いのです。広場を囲む森が憂鬱そうな黒い色です。この中に分け入って暗い林の中のアジサイの花の写真を撮ろうとしました。

081

森へ続く道です。やはりアジサイが咲いています。

067

森の中には色とりどりのアジサイが沢山咲いています。

036_2

森の中でアジサイの花々の写真を撮りながら奥へ、奥へと進むと向こう側にスイレンの咲いている池が見えてきます。

下にはアジサイの花々の写真とスイレンの花の写真を追加しました。

061 069 084

087 089 119

049 050 078

030 022 021


北海道の生活の厳しさと雄大な自然(4)箱館の繁栄と松前藩城下町の衰退

2012年06月23日 | 日記・エッセイ・コラム

1853年にペリー提督が黒船で来航以来、江戸幕府はアメリカ、ロシア、イギリス、オランダなどと修好通商条約を結び、長崎、下田、函館に外国の領事館を置くことを許可しました。

そして江戸から遠方の下田に初めてのアメリカ領事館を置き、はるか遠方の箱館という寒村に初めてのロシア領事館とイギリス領事館が置かれたのです。

北海道には当時、松前藩があり、城下町の松前には北前船が通い、賑わっていたのです。

近江八幡の商人や大阪の豪商の出店が並び、商店の連なった町には人が溢れていたのです。幕末には松前藩13代目の藩主が善政を行い、領民は漁業と北前船を使った商業で豊かな生活をしていました。蝦夷地のアイヌ人はこの松前藩へコンブや海産物を売り、生活が楽でした。それは北海道の一つの繁栄した平和な時代だったのいです。

しかし江戸幕府はこの松前を開港しないで、そこから険しい山を越えた箱館という寒村を外国へ開放したのです。これが松前と函館の運命の明暗の別け目になったのです。

1858年、日露修好通商条約が出来るとロシア領事、ゴシュケヴィチがすぐに函館に着任します。

彼は領事館の付属聖堂としてロシア正教の教会堂を作ります。そして1861年には領事館付き司祭としてニコライ神父をよびます。

このニコライは後に東京の神田にニコライ堂を建て、ロシア正教を基礎にして日本正教会を作ったのです。

ニコライは日露戦争が起きても日本に踏みとどまって日本人信者の為につくしたのです。亡くなった時には明治天皇から花輪が贈られ、上野の谷中の墓地の土になったのです。

一方、イギリス領事館は1859年に箱館に出来、初代の領事としてホジソンが着任しました。このイギリス領事館はその後75年間も函館でいろいろな活動を続けたのです。

領事館より少し遅れましたが1874年にはイギリス聖公会・聖ヨハネ教会が函館に作られました。日本中からキリシタン禁教の高札が撤去されたのは次の年の1875年(明治7年)だったのです。

この函館聖ヨハネ教会の開設には当時のイギリス領事が強力に支援しました。

今回の函館旅行ではロシア領事館と函館ハリスト教会、そしてイギリス領事館と函館聖ヨハネ教会の写真を撮ってきました。いずれも火事に遭い、幕末の建物ではありませんが古い様式を忠実に守っています。詳しい歴史は検索するといろいろな情報があります。

K_033

上のロシア領事館は庭だけが開放されています。随分と傷んでいますが雨だけは洩らないように保守管理されています。正門わきにロシア領事館の歴史を書いた看板があります。

K_027

・上と下の2枚は函館ハリスト教会の外観です。内部は撮影禁止ですが、金箔がまばゆい祭具や燭台が聖画に供えられています。共産党革命以前のロシア文化の香りを湛えています。東京、神田のニコライ堂を少し小型にしたような教会ですが神秘的な中の飾り付けは信仰の強さを暗示しているようで、感動的なものです。

H_024

H_026

下は函館イギリス領事館です。

H_345

現在、この領事館は入場料300円を払って見学できます。入口にイギリスの物産品を売っている店やティールームがあります。

下は函館聖公会・聖ヨハネ教会の現在の建物の外観です。

H_339 

なお函館にはフランス人神父の作った古いカトリック教会もあります。この記事の続きとしてご紹介いたします。

このように淋しい小さな漁村に外国の領事館や教会が江戸末期に出来たことで箱館は急に繁栄し始めるのです。

その勢いは松前藩の城下町を追い越して明治時代には函館が北海道の開拓の玄関口になったのです。青函連絡船も出来、現在では松前は淋しい観光地になってしまったのです。

北海道の生活は厳しさと雄大な自然と一言で表現すると大きな誤りになります。

同じ北海道でも生活の厳しさは地域によって非常に格差があるのです。函館の街を車でおちこちへ走っていると、この街の繁栄ぶりが良く分かります。一方、松前へ峠を越えて行くとその淋しさが胸がせまります。

江戸幕府が松前の城下を避けて、寒村の函館をロシアとイギリスの領事館を置いたのが運命の分かれ目になったのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)