1853年にペリー提督が黒船で来航以来、江戸幕府はアメリカ、ロシア、イギリス、オランダなどと修好通商条約を結び、長崎、下田、函館に外国の領事館を置くことを許可しました。
そして江戸から遠方の下田に初めてのアメリカ領事館を置き、はるか遠方の箱館という寒村に初めてのロシア領事館とイギリス領事館が置かれたのです。
北海道には当時、松前藩があり、城下町の松前には北前船が通い、賑わっていたのです。
近江八幡の商人や大阪の豪商の出店が並び、商店の連なった町には人が溢れていたのです。幕末には松前藩13代目の藩主が善政を行い、領民は漁業と北前船を使った商業で豊かな生活をしていました。蝦夷地のアイヌ人はこの松前藩へコンブや海産物を売り、生活が楽でした。それは北海道の一つの繁栄した平和な時代だったのいです。
しかし江戸幕府はこの松前を開港しないで、そこから険しい山を越えた箱館という寒村を外国へ開放したのです。これが松前と函館の運命の明暗の別け目になったのです。
1858年、日露修好通商条約が出来るとロシア領事、ゴシュケヴィチがすぐに函館に着任します。
彼は領事館の付属聖堂としてロシア正教の教会堂を作ります。そして1861年には領事館付き司祭としてニコライ神父をよびます。
このニコライは後に東京の神田にニコライ堂を建て、ロシア正教を基礎にして日本正教会を作ったのです。
ニコライは日露戦争が起きても日本に踏みとどまって日本人信者の為につくしたのです。亡くなった時には明治天皇から花輪が贈られ、上野の谷中の墓地の土になったのです。
一方、イギリス領事館は1859年に箱館に出来、初代の領事としてホジソンが着任しました。このイギリス領事館はその後75年間も函館でいろいろな活動を続けたのです。
領事館より少し遅れましたが1874年にはイギリス聖公会・聖ヨハネ教会が函館に作られました。日本中からキリシタン禁教の高札が撤去されたのは次の年の1875年(明治7年)だったのです。
この函館聖ヨハネ教会の開設には当時のイギリス領事が強力に支援しました。
今回の函館旅行ではロシア領事館と函館ハリスト教会、そしてイギリス領事館と函館聖ヨハネ教会の写真を撮ってきました。いずれも火事に遭い、幕末の建物ではありませんが古い様式を忠実に守っています。詳しい歴史は検索するといろいろな情報があります。
上のロシア領事館は庭だけが開放されています。随分と傷んでいますが雨だけは洩らないように保守管理されています。正門わきにロシア領事館の歴史を書いた看板があります。
・上と下の2枚は函館ハリスト教会の外観です。内部は撮影禁止ですが、金箔がまばゆい祭具や燭台が聖画に供えられています。共産党革命以前のロシア文化の香りを湛えています。東京、神田のニコライ堂を少し小型にしたような教会ですが神秘的な中の飾り付けは信仰の強さを暗示しているようで、感動的なものです。
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下は函館イギリス領事館です。
現在、この領事館は入場料300円を払って見学できます。入口にイギリスの物産品を売っている店やティールームがあります。
下は函館聖公会・聖ヨハネ教会の現在の建物の外観です。
なお函館にはフランス人神父の作った古いカトリック教会もあります。この記事の続きとしてご紹介いたします。
このように淋しい小さな漁村に外国の領事館や教会が江戸末期に出来たことで箱館は急に繁栄し始めるのです。
その勢いは松前藩の城下町を追い越して明治時代には函館が北海道の開拓の玄関口になったのです。青函連絡船も出来、現在では松前は淋しい観光地になってしまったのです。
北海道の生活は厳しさと雄大な自然と一言で表現すると大きな誤りになります。
同じ北海道でも生活の厳しさは地域によって非常に格差があるのです。函館の街を車でおちこちへ走っていると、この街の繁栄ぶりが良く分かります。一方、松前へ峠を越えて行くとその淋しさが胸がせまります。
江戸幕府が松前の城下を避けて、寒村の函館をロシアとイギリスの領事館を置いたのが運命の分かれ目になったのです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)