北海道から出土する縄文土器は円筒形をしたもので、同じような土器が北東北地方からも出てきます。当時の縄文人は現在のアイヌ人の祖先と考えられます。
同じように黒曜石で作った矢じりや小刀は北海道も北東北も同じ産地の黒曜石を使っていました。矢じりを矢に接着するアスファルトも同じ秋田県産のものを使っていたのです。
やがてアイヌ人と大陸からの渡来人との混血によって弥生人が出来て行きます。そうしてこの弥生人がアイヌ人(縄文人)を次第に駆逐して行きます。
その後、大和朝廷は仙台市の多賀城に北端の城柵を作り、アイヌと違った文化圏を作りあげて行ったのです。
この現象が日本人とアイヌ人の分離と住み分けに繋がって行くのです。
そして明治維新以後に、明治政府が北海道開拓を推進し、アイヌ人を日本人へ同化し、混血が進み、アイヌ人は日本人と融合してしまったのです。
弥生時代になってから、全国に住んでいたアイヌ人が日本人と北海道のアイヌ民族と分離したのです。それが明治時代以降に再融合したのです。雄大な歴史ロマンではありませんか?
縄文時代には北海道も北東北も同じ円筒形縄文土器を使っていたのです。その円筒形の土器の分布図を下に示します。出典は、「南茅部町と北東北の交流」:
(http://isikari.genin.jp/kitanokodaisi/kitanojiyomon/kitatouhoku/kitatouhoku.html )です。
そしてその右に黒曜石の産地と移動を示す図面も示します。出典は同じです。
なお 北海道の生活の厳しさと雄大な自然(3)我々の先祖はアイヌ人だった! で紹介した函館市臼尻町は南茅部町と函館市が合併して出来た町名番地で同じ所のことです。
それにしても世の中には不思議な趣味があるのものです。
黒曜石からワザワザ刃物を作り、「石器ナイフ」として販売しているのです。
下にその写真をご紹介します。出典は、http://www.h2.dion.ne.jp/~isi/page5/sub5.htmです。
このようなナイフや矢じりの切れ味は大変良いそうです。これを使うと縄文時代の生活体験が出来るので興味持つ人が居るのでしょう。
・上のナイフには21000円の値段がついています。
下の矢じりは2千円から4千円といろいろな値段がついています。
縄文時代(BC15000年?ーAC200年?)に日本列島に広く住んでいた人間はアイヌ人で、彼らが縄文土器を多量に作ったのです。すなはち縄文人とアイヌ人は同じ人間だったのです。
そして北海道に居た縄文人(アイヌ)の子孫は朝鮮や中国か渡来した人と混じらないで純粋にその文化を伝承したのです。その北海道人が近年まで北海道に住んでいたアイヌ人なのです。
一方、本州に居たアイヌは大陸からの渡来人と混血し弥生人になりました。そして本州を中心に棲みついた現在の日本人の先祖になったのです。
渡来人の血が濃いのは九州や大和地方の人で、アイヌの血が濃いのは東日本の人です。私は宮城県で生まれましたのでアイヌ人が祖先と言っても大きな間違いがありません。
縄文人イコールアイヌ人。そして我々の先祖。この大胆な仮説を信じるようになったのは北海道の函館市臼尻小学校付近から出土した多量の精巧な土器や土偶を見た瞬間です。瞬間的に確信しました。しかし近年まで純粋にアイヌ文化を保持してきた北海道のアイヌ人は縄文土器も含めて焼物を一切作りません。それは失われた文化になってしまったのです。
岩礁の迫った険しい地形の海岸の臼尻町は孤立したでした。市町村合併で函館市になりましたが非常に辺鄙な漁村です。そこに立派な縄文土器の展示館があるのです。衝撃的な展示物は国宝に指定されている中が空洞になっている高さ41・5センチメートルもある大きな土偶です。詳細は、函館市縄文文化交流センターを検索すると出ています。
1万年前から2000年前にかけて北海道には広く縄文土器が存在していたのです。当時はアイヌ人しか北海道に住んでいなかったのです。ですから縄文人イコールアイヌ人という結論になります。
本州に住んでいたアイヌ人は渡来人と混血し弥生人になったのです。私はこの仮説を信じます。
以下に私が撮った臼尻町の縄文土器関連の写真を示します。
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この縄文土器展示館の係員へ聞きました。
「アイヌ人と縄文人は同じ人なのですか」と聞きました。係員は、「いろいろな説があり結論は出ていません。しかし、北海道ではアイヌ人は縄文人の子孫と言われています」と答えていました。
民族は生物学的な分類だけでなく宗教や文化の独自性で生まれるという考えを再確認する今回の北海道旅行でした。私にとっては驚きの旅でした。(続く)
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)