今日は曇りなので「銀ブラでもしてこようかな」と家内に言ったところ、「ブラブラすることではなくブラジルコーヒーを飲むことだと先日テレビで聞いたわ」と言われてしまいました。コーヒーを飲む店はカフエーパウリスタという店に限るそうです。ブラジルから直輸入した豆を使っている店です。
一般に語源とはいろいろあり、複数の由来があることが多いのです。銀座をブラブラするから「銀ブラ」と言い出した人も居るし、銀座でブラジルコーヒーを飲むから「銀ブラ」と言い出した人もいるのです。前者が多数で、後者が少数なら多数決で決めるのが良いのです。目くじら立てて議論するほど重要な事ではありません。
それにしてもそのコーヒー店を訪問して決着をつけようと思い立ちました。幸い雨は降りそうにないので電車で行きました。車で行きたかったのですが運動にもなるので電車にしました。
下に銀座8丁目の中央通りに面したその店の写真とブラジルコーヒーの写真を示します。
・
・
まず吃驚したのはそのブラジルコーヒーが実に美味なのです。焙煎を少し強めにした苦いコーヒーです。焙煎が強いのでコーヒー独特の香りが豊かです。懐かしい昔の味です。混じりっけのない純粋な、本物のコーヒーです。
ワインに例えれば甘くない辛口のドイツワインのようです。それでいてブドウの香りが漂っているのです。広いブドウ畑の風が感じられるのです。
この店のコーヒーには文化の香りがします。戦前の文化の香りです。その頃のことを急に思い出してしばし甘い思い出を楽しみました。電車に45分も乗ってきたムシャクシャが魔法のように消えてしまいました。
大正時代のパウリスタは文化活動の一拠点で、常連客には水上滝太郎、吉井勇、菊地寛、久米正雄、徳田秋声、正宗白鳥、宇野浩二、芥川龍之介、久保田万太郎、広津和郎、佐藤春夫、獅子文六、小島政二郎、などなどが居たそうです。
それにしても懐かしい名前が並んでいます。
今日、この店には普通の子供連や若いカップルがいて、近所のファミリーレストランのお客層と同じです。庶民の来る普通の値段のお店なのです。時代の流れに感慨を覚えます。その客の様子とメニューの写真をしめします。
この店の歴史は明治37年の水野龍による皇国殖民合資会社の設立から始まります。この合資会社の目的は、ブラジル移民推進と、彼等の生産物のコーヒーを日本で売りさばいてその生活を支援するという大きな目的でした。
日本の明治時代の殖産興業の一つの歴史が深くかかわっているのです。
水野龍は明治41年、1908年、最初の移民団の団長として、笠戸丸に乗ってブラジルへ渡ったのです。ブラジルではサンパウロ州政府の信頼を得て、サントスコーヒー豆の東洋における独占販売権を手に入れたのです。
そして明治44年、1911年に銀座六丁目ににカフェパウリスタを開店したのです。現在の八丁目の店は昭和45年、1970年にできました。
新しい店は規模こそ小さくなりましたが、コーヒーカップやスプーンやミルク入れは昔のままを復元し、ソーサーのマークはサンパウロ市の紋章に似せて作ってあるそうです。壁紙や照明を工夫して昔のカフェパウリスタの面影をとどめています。
下に移民団の写真や関連写真と昔の雰囲気の暗い店内の様子の写真を示します。
さて銀ブラの語源の決着です。
銀座をブラブラ逍遥する人々は明治時代の中期から沢山居たはずです。その人々が家に帰ってきて家人へ銀ブラしてきたと言ったに違いありません。極めて自然な言葉の省略法です。
一方、大正時代に慶応義塾の学生の間で銀座に行って、パウリスタでブラジルコーヒーを飲む事を「銀ブラ」と言ったのも確かなようです。しかしこの言葉には省略法としてはかなり無理があります。むしろ学生の間だけの隠語のようなものと理解するのが自然です。隠語には普遍性がありません。
ですから私は銀座をブラブラするから「銀ブラ」という由来に軍配を上げます。あまりこじつけた説は普遍性に欠け、真実からは遠方にあるのが普通です。
詰まらない問題ですが、あなたのご意見をお聞かせ下さい。(終り)
皆様がよく食べるジャガイモの多くは男爵いもです。他には煮崩れしないメイクイーンがよく食べられています。
この男爵いもは1908年、明治41年、川田龍吉男爵がアイルランドから持ち込んで日本へ普及させた品種です。
川田男爵は日本の造船業を興し、その近代化や北海道の乳牛畜産や農業の近代化を力強く推し進めた偉大な事業家でした。明治時代の殖産興業というものを情熱的に進めた快男子でした。その関連の資料を集めて展示している場所が「男爵資料館」です。
下にその写真と展示物の写真があります。場所は函館の西30kmくらいの所にあるJR当別駅の傍です。トラピスト修道院から2kmくらい東です。
この資料館は彼が使っていた乳牛用牧舎だった建物です。
中には日本へ初めてアメリカから輸入された農業用のトラクターをはじめ数々の農業用の道具が展示されています。多くは輸入品です。これら全ては川田男爵の私財を使って輸入したのです。
日本の近代化のために乳牛を育て、牛乳やバターやチーズを普及させようとする川田龍吉男爵の溢れるような情熱が感じられます。そのお陰で北海道で乳製品の生産が盛んになったのです。
この展示館にはもう一つ注目すべき展示物があります。
日本で初めてアメリカから輸入し、彼が通勤に毎日使っていた自動車が復元展示してあるのです。日本で初めての自家用車です。彼は日本で初めての自動車の所有者として有名です。
自動車は当時、蒸気機関で動く「蒸気エンジン自動車」でした。
下に示した川田男爵の自動車は椅子の下に蒸気エンジンが格納されています。この展示物は東京工業大学の一色教授によって動くように復元されたもので、時速は10km前後と言われています。
この男爵展示館には農業用の機械と蒸気自動車しかありませんが、川田男爵のもう一つの大きな功績は造船業の近代化にあったのです。日本の各地にある造船所にドックを作り、大型船の製造を推進したのです。
その一つには「函館ドック」があり長年、函館で大型船の製造が続いたのです。
現在、私共は学校で明治時代の富国強兵・殖産興業という言葉を習います。
富国強兵はかなり明快なイメージで理解できますが、殖産興業とは理解が難しい言葉です。
しかしこの男爵資料館をみるとその言葉の意味が実感的に理解できます。
話は飛びますが、群馬県にある富岡製糸工場を見て、この男爵資料館をみると明治時代の殖産興業への熱情が深く理解できるのです。
明治時代は日本の近代化の怒涛の時代だってことが理解できます。
下に関連の写真と参考資料を示します。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。後藤和弘(藤山杜人)
・
・
・
・
・参考資料:
ロコモビル(国内最古の自家用乗用自動車)
http://www.jsme.or.jp/kikaiisan/data/no_035.html
1902(明治35)年4月、8台のロコモビル社製蒸気自動車がアメリカから輸入された。これらは市販用としてはわが国最初の自動車群で、このうち1台を当時横浜船渠社長であった川田龍吉男爵が2,500円で購入し、通勤用に使用しはじめた。川田男爵はわが国ではじめて自家用車を所有した人物ということになる。
このロコモビルは、のちに函館船渠の社長となった川田男爵が北海道に持ち込み、市内の自宅と男爵イモの農場があった七飯との間の往来に使用したという。1908(明治41)年頃故障で動かなくなり、その後長く農場の倉庫の片隅に放置されていた。1978(昭和53)年にNHK札幌局のディレクターであった伊丹政太郎氏によって発見が報告され、のちに東京工業大学一色尚次教授の指導により、現在の規格に合わせて新製されたボイラ以外は当時の部材をそのまま用いるという方針のもと、1980(昭和55)年に稼動状態に復元整備されている。現在、男爵資料館に展示中で、修復資料は完全保存されているほか、復元時取り外した機器も展示中である。