後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

山梨県にある桃源郷と本来の桃源郷の大きな相違

2012年06月16日 | 日記・エッセイ・コラム

山梨県の西端の山林に質素な小屋を持っているのでよく行きます。甲府盆地の周囲の傾斜地はブドウ栽培や桃の栽培に使われています。春になると文字通り「桃色」の花が一斉に咲きます。特に東部の一宮や西部の新府には桃畑が広大に斜面を覆っていて、花が咲くと夢のような風景になります。あちこちに「桃源郷**」という看板があります。

本来の桃源郷は絶対に二度と訪問できないのです。ところが山梨県の桃源郷は何度も出入り自由なのです。要するに「安直な桃源郷」なのです。

しかし桃の花が満開になる度に、「ああこれが桃源郷だ」と感じている自分を発見しています。外国の考えや名前を気軽に転用するのはいかがなものかと思いますが、桃源郷と言うと何故かとてもロマンチックな風景に見えるから不思議です。

雨に降り籠められて、暇をもて余していたので、桃源郷のことを少し調べてみました。

3枚の写真は昨年の4月に撮った山梨県の西の新府の桃源郷です。

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=====Wikipedeaの「桃源郷」から転載==========

桃源郷の初出は六朝時代東晋末から南朝宋にかけて活躍した詩人陶淵明365年 - 427年)が著した『桃花源記 ならびに詩』である。(詩集では、『桃花源詩 ならびに序』という名前で,採録されることが多い。)現在では『桃花源紀』()よりは、その序文のほうがよく読まれている。

太元年間(376年 - 396年)、武陵(湖南省)に漁師の男がいた。ある日、山奥へ谷川に沿って船を漕いで遡ったとき、どこまで行ったか分からないくらい上流で、突如、の木だけが生え、桃の花が一面に咲き乱れる林が両岸に広がった。その香ばしさ、美しさ、花びらや花粉の舞い落ちる様に心を魅かれた男は、その源を探ろうとしてさらに桃の花の中を遡り、ついに水源に行き当たった。そこは山になっており、山腹に人が一人通り抜けられるだけの穴があったが、奥から光が見えたので男は穴の中に入っていった。

穴を抜けると、驚いたことに山の反対側は広い平野になっていたのだった。そこは立ち並ぶ農家も田畑も池も、桑畑もみな立派で美しいところだった。行き交う人々はみな微笑みを絶やさず働いていた。

男を見た村人たちは驚き話しかけてきた。男が自分は武陵から来た漁師だというとみなびっくりして、家に迎え入れてたいそうなご馳走を振舞った。村人たちは男にあれこれと「外の世界」の事を尋ねた。そして村人たちが言うには、彼らはの時代の戦乱を避け、家族や村ごと逃げた末、この山奥の誰も来ない地を探し当て、以来そこを開拓した一方、決して外に出ず、当時の風俗のまま一切の外界との関わりを絶って暮らしていると言う。彼らは「今は誰の時代なのですか」と質問してきた。驚いたことに、ここの人たちは秦が滅んでができたことすら知らなかったのだ。ましてやその後の三国時代の戦乱や晋のことも知らなかった。

数日間にわたって村の家々を回り、ご馳走になりながら外の世界のあれこれ知る限りを話し、感嘆された男だったが、いよいよ自分の家に帰ることにして暇を告げた。村人たちは「ここのことはあまり外の世界では話さないでほしい」と言って男を見送った。穴から出た男は自分の船を見つけ、目印をつけながら川を下って家に戻り、村人を裏切ってこの話を役人に伝えた。役人は捜索隊を出し、目印に沿って川を遡らせたが、ついにあの村の入り口である水源も桃の林も見付けることはできなかった。その後多くの文人・学者らが行こうとしたが、誰もたどり着くことはできなかった。(終り)

桃源郷と呼ばれる所は日本のあちこちにあります。最後に福島市の花見山の写真を2枚、示します。2010年の4月に私が撮りました。

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梅雨の晴れ間の山中湖の写真です

2012年06月16日 | 写真

今日の東京地方は朝から雨で、午後になってもシトシト降っています。気圧も低いせいか気分が良くありません。

そこで一昨日撮ってきた晴れた日の山中湖の写真を見ていましたら元気になってきました。

下にその写真をお送りいたします。ご気分がスッキリなりますように祈っています。

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明治維新以前の日本の風景と以後の風景を比較する

2012年06月16日 | 日記・エッセイ・コラム

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私は風景写真を沢山撮ります。そして数多くの写真から数枚を選んで、皆様が興味を持ってくださるように配列を考えて掲載する努力をしています。

風景写真を撮る時、いつも考える事はその風景が永遠に続くのかという疑問です。

するとつい明治維新を基準にして、それ以前と以後の風景と分けて撮影します。さらに大和時代から平安、鎌倉、室町、江戸と変わらない風景も探します。

富士山の風景や江の島や三浦半島、真鶴半島の風景を撮る時に、電線と近代的な家々を写真に写らないようにします。するとその風景は大和時代からそんなに変わっていません。

風景写真ではありませんが、実例を示します。上のお地蔵さんの写真は説明板を除けば江戸時代のものになります。特に右側の写真は1666年のお地蔵さんの写真です。鼻はかけていますが、それ以外は変わっていません。昨日、滄浪泉園出撮ったもので、この地蔵さんは小金井市で一番古いお地蔵さんです。

ところが下の4枚の写真は明治維新以後、それも戦後アメリカ的な遊園地が入ってきてから見られるようになった不思議な光景です。

何故か自然に対して挑戦しているような造形です。

私は好きでないし、美しくもないのですが、とても斬新な風景なので、一昨日、写真に撮って来ました。斬新なだけでなく何か独創的な感じもします。

それにしてもお地蔵さんと並べるのは随分と可笑しいのですが、富士急ハイランドをお好きな方々がお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

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消費税関連法案で自公民3者合意・・・野田総理の努力を絶賛する

2012年06月16日 | 日記・エッセイ・コラム

今朝の読売新聞一面に「一体改革 民自公が合意」と大きな見出しが出ています。

消費税増額と共に年金などの社会保障制度や税金制度を一緒に改革して、日本の国家財政を健全にする一連の法案に自由民主党と公民党との合意を得たのです。

後は衆議院へ提出して賛成多数で可決し、参議議員も賛成多数で可決出来る見通しが見えて来ました。これで反対している小沢一派も一蹴できます。

それよりも重大な事は日本が将来、ギリシャやスペインのような国家の財政倒産が起きなくなったという事です。

昨年の大震災以来、最大の明るいニュースです。

野田佳彦氏は最近の日本では非常に珍しい政治家です。

民主党内の反対勢力をはじめ、野党の自由民主党と公民党とも誠心誠意相談するのです。そうすれば絶対に合意に至るという信念の持ち主なのです。

その上、部下の政治家や官僚に仕事を任せます。そして自分は方針を絶対に変えません。これでは部下の政治家も官僚も本気で仕事をします。

このように書くことは簡単です、しかし人間は総理大臣になり、権力を握ると途端にそれが出来なくなるのです。それが悲しい人間の性(さが)なのです。

野田総理は就任以来1年位しか経っていませんが、3つの大きな成果を上げています。

一つめは、対米政策の推進と、アメリカの信頼をかち取ったことのです。その事情は以下に示した5月1日掲載の記事で詳しく説明しました。

二つめは、今回の消費税関連法案で自公民3者合意をかち取った事です。これで日本の将来の財政健全化が見えて来たのです。明るい希望の光が射してきたのです。

三つめは、大飯原発の再稼働の決定です。大阪、京都、兵庫などの広域連合の知事達をまず説得し、福井県知事を説得し、そして地元の市町村を説得したのです。そして最後は自分が責任を取るから大飯原発をもう一度動かそうと言ったのです。

私は大飯原発は夏だけ動かし、秋に停めて、もう一度原発問題を議論すべきという意見です。そして何年か後には原発をゼロにして行く方向に賛成です。

野田総理は原発をある割合だけ長期間保持すべきと考えています。ですから大飯原発も秋になっても停めないと言っています。

私の個人的な意見とは合いませんが、私は野田総理の誠意ある相談の進め方に感動しています。原発賛成派にとっては大飯原発再稼働は大変大きな成果と思っているに違いありません。

以上のように私は野田総理の大きな成果を公平に、総合的に考えると、彼の政治の進め方を絶賛したいのです。

久しぶりに信頼に足る総理大臣を持った幸せを感じています。

皆様のご意見はいかがでしょぅか?

それはしれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

=====以下はこのブログの2012年5月1日の掲載記事です======

新聞記事2題、その二「野田総理の訪米の大成功」

本当に久しぶりの6年ぶりに、「日米共同声明」が発表されました。

民主党政権になってから始めての正式の日米首脳会談がワシントンDCでありました。次期大統領選挙の遊説で忙しいオバマさんが3時間も野田総理と話し合いました。その結果、野田さんを信頼した様子が共同記者会見から伺えます。

昨年9月にオバマさんは野田総理に少しだけ会い、日本側へ宿題を出しました。普天間基地問題の解決。TPP交渉への参加。防衛技術の友好国への解放。自衛隊の海外派遣への協力。などなどの宿題です。

野田総理は外務省や防衛省や経済産業省の役人たちの努力を結集して宿題に真剣に取り組んだのです。

普天間基地移転は努力しましたが沖縄県の反対に会いアメリカ側が期待するようには解決していません。しかし野田政権の誠意ある調整にはかなり満足しているようです。

TPP交渉へは参加の表明を素早く発表しました。アメリカ側はこれを高く評価しています。防衛技術の友好国との共同開発の方針も決定しました。

自衛隊の海外派遣の方向性は、北朝鮮の衛星打ち上げの時に黄海や中国沖への海上自衛隊の展開で示されました。

アメリカと韓国と日本が組んで、北朝鮮・中国・ロシアの海軍勢力に対抗しようとしているのです。

これで東アジア海域における敵味方が旗色鮮明になったのです。

アメリカ人が好きな「敵味方の旗色鮮明」が明らかになったのです。

これで鳩山総理、管総理と2代続いた対米外交の失点を一挙に取り戻したのです。

その証拠は知日派のアーミテ-ジ元国務副長官の感想です。

「アメリカから見た立派な日本の総理は、一に中曽根、二に小泉。野田総理はそれに匹敵する」、と言ったそうです。

野田総理はいかにも日本的な人です。声高く格好の良いことを言わないのです。もくもくと努力します。政敵とも丁寧に話合うのです。

このように地味な政治家がアメリカで高く評価されたことを私は大変嬉しく思います。

そして野田総理は津波の犠牲になったアメリカ人英語教師の母親に会い、慰めていました。またボランティア活動で震災後の瓦礫の山の中で遺体捜査や被災者の救援に参加したアメリカ人に会い感謝しました。

とにかく今回の野田総理の訪米は大成功でした。

久しぶりに明るいニュースでした。皆様のご意見をお聞かせ下さい。(終り)

=====野田佳彦氏の生い立ち==========

Yoshihiko_noda31 1957年生まれ。船橋市立薬円台小学校船橋市立二宮中学校と進み、1976年(昭和51年)3月、千葉県立船橋高等学校を卒業[4]

県立船橋高校では柔道部に所属[5]1976年(昭和51年)4月、早稲田大学政治経済学部政治学科に現役で入学。立花隆に憧れ、ジャーナリストを志していた。在学中は新自由クラブでボランティア活動をしていた。1980年(昭和55年)3月、早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業。

松下幸之助が設立したばかりの松下政経塾に第1期生として入塾した。

野田は「今でも、松下幸之助塾長との最終面接を鮮烈に覚えています。笑顔で迎えてもらったが、目は笑っていませんでした。むしろ、射抜くような怖い目つきでした。耳はとても大きくて、ピンと立っていました。」「『キミの身内に政治家はおるか?』『まったくいません』『そりゃ、エエな。ところでキミの家は金持ちか?』『どちらかというと貧乏です』『なお、エエな』何が良かったのか、いまだにさっぱり分かりません。が、こうして、政経塾で5年間、あるべき政治の姿を学ぶことになりました。」と当時について回想している。

1985年(昭和60年)に政経塾を卒業した。