後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

日本人として世界に自慢したい250年間の隠れキリシタンの歴史

2012年06月15日 | 日記・エッセイ・コラム

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上の写真は長崎で1597年、慶長元年ににキリスト教を捨てなかったので、処刑された26聖人の像です。

外国人宣教師6名と日本人信者20名がキリスト教を捨てなかったので処刑されたのです。処刑後すぐにローマ法王は彼等に「聖人」の称号を贈ったのです。ですから、世界的に有名な話なのです。

処刑は26名だけではありませんでした。棄教しないキリスト教徒を拷問にかけ30万人も処刑したのです。(30万人については確証はありません)。

当時、日本に広がっていたキリスト教は、1549年にザビエルが伝えた天主教(カトリック)で、棄教は恥と思われていました。

1614年、慶長18年の大禁教令が出て、日本中のキリスト教徒は隠れて信仰を守る行動に入ったのです。それが隠れキリシタンです。

一方、高山右近という大名はキリスト教を捨てる代わりにフィリッピンへ逃げて行ったのです。

幕府は隠れキリシタンを摘発する為に「踏絵」を毎年、明治4年まで続行したのです。明治維新後もキリシタン禁教は厳しく守られていたのです。

しかし、この江戸幕府の厳しい禁教政策にも拘わらず、隠れキリシタンは251年も信仰を守ったのです。

この歴史ほど日本人の勇気と誠実さを証明するものはありません。日本人として世界に自慢したい歴史的事実です。

1614年、慶長18年の大禁教令から251年目の1865年、元治2年に隠れキリシタン達が、下の写真のような大浦天主堂に現れたのです。そしてフランスから来ていたプチジャン神父へ、ザビエルの伝えた天主教(カトリック)を信じてきたことを告げたのです。

そのように信仰に誠実な勇気ある日本人が居たのです。

日本が外国へ対して自慢出来るのは経済力だけではないのです。

もっと、もっと日本人はいろいろ自慢出来るものを持っていると思います。

皆様にお教え頂きたいと思っています。

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下に隠れキリシタン関連の本を少しご紹介しておきます。

(1)片岡弥吉著、「踏絵―禁教の歴史」、日本放送出版協会、昭和44年6月初版発行。

(2)片岡弥吉著、「長崎の殉教者」角川選書33、角川書店、昭和45年3月初版発行。

(3)ルイス・フロイス著、柳谷武夫訳、東洋文庫4「日本史1、キリシタン伝来のころ」、平凡社、昭和38年10月、初版発行。

(4)平川祐弘著、東洋文庫141「マッテオ・リッチ伝、1」、平凡社、昭和44年6月、初版発行。

(5)岡田章雄著、「バテレンの道」、淡交社、昭和45年12月、初版発行。

(6)松田毅一著、「キリシタン時代を歩く」、中央公論社、昭和56年7月、初版発行。

(7)加賀乙彦著、「ザビエルとその弟子」、講談社、2004年7月、初版発行。


犬養毅首相が名づけた滄浪泉園の写真をお楽しみ下さい

2012年06月15日 | 日記・エッセイ・コラム

滄浪泉園という名前は犬養毅首相が名づけたものです。下の写真の右手に立っている大きな石碑に縦書きで彫ってある「滄浪泉園」の字も彼の墨書を足立氏という篆刻家が彫ったものです。

この庭園と別荘を作ったのは明治・大正期に活躍した銀行家であり、外交官や衆議院議員も務めた波多野承五郎氏でした。犬養毅首相の友人だったので彼もこの庭園に何度か遊び、名前をつけたのです。

犬養毅首相は1932年の5・15事件で、「話せば分かる」と言いながら乱入した軍人にピストルで撃たれて絶命したのです。孫文の辛亥革命を支援し、満州問題を穏健に中国と話し合いで解決しようとした立派な政治家でした。

滄浪泉園は小金井市が昭和52年から整備して一般に開放しています。約1万2千平方メートルあり、かなりの起伏があります。今日は晴れていたので散歩に行って、写真を撮ってきました。門を入ると丈の高い樹林の中を下る小道がついていて、終いには大きな池に出ます。池の回りを散歩することがこの滄浪泉園の一番楽しいことです。

池の水面には周囲の樹木が写し出されて、波にユラユラ動いています。その美しさを撮ろうとしましたが思ったより良く写りませんでした。

写真をお楽しみ下されば嬉しく思います。詳しくは小金井市、滄浪泉園をキーワードにして検索するといろいおな情報がありま。梅雨の晴れ間に一度お出掛け下さい。

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山中湖村の「花の都公園」の写真をお楽しみください

2012年06月15日 | 写真

昨日、撮って来た写真です。大きな花畑はキカラシの花が一面に咲いていました。

その下の花々は「花の都公園」の看板の前の花壇に咲いていたケシとヤグルマソウです。

4枚目の写真は昨日、富士山が雲に覆われていたので公園のHPからお借りした物です。

(出典:http://www.hananomiyakokouen.jp/flower/info.php?year=2012&month=06&id=407 

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日本の道路の素晴らしさに感動する・・・感謝しています

2012年06月15日 | 日記・エッセイ・コラム

道路の素晴らしさに感謝する人。当たり前だと思う人。まだまだ悪いと怒っている人。通行料金が高すぎると怒っている人。道路公団がケシカランと怒っている人。本当にいろいろな人がいます。人それぞれ、年齢や職業によって感じ方が違います。

車の運転の出来る人。自転車だけを愛用している人。電車だけに乗っている人。それぞれ日本の道路については意見が違います。

それは分かっていますが、私は何時も日本の道路の素晴らしさに感動しています。感謝しています。

外国の道路に比較して素晴らしいと言っているのではありません。第二次大戦中や戦後のひどい道路を知っているので感動しているのです。

その頃は舗装が普及していなかったので、多くの道路は砂利を敷いただけの道路でした。デコボコ道路で、土埃が舞い上がっていました。

雨が降ると泥濘が広がり下駄ばきの足が泥まみれになったものです。

たまに自動車が通ると、その泥濘のしぶきを情け容赦無く歩いている人々に降りかけて通り過ぎるのです。それが普通でした。

現在は、そんな道路は余程山奥に行かないとありません。隔世の感です。

ですから日本の道路を車で走る度に感謝の気持ちがフツフツと湧きあがってくるのです。貧乏な時代に育った人間だからこそ感謝するのです。感謝すれば幸せに思います。幸福になれるのです。これが貧乏な時代に育った人間の特権なのです。

昨日もそのような体験をしました。下の写真は中央高速道路の大月から河口湖へ向かう風景です。

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向かうに富士山が見えています。その雪山が右になったり、左になったりして次第に大きくせまってきます。車の通行量が少ないのでゆっくり写真を撮りながら走ります。こんな素晴らしい道路を走っていると、戦後住んでいた仙台市の土埃もうもうたる街路を思い出します。その頃は自嘲して、皆が「仙台砂漠」と言いあって、慰めていました。

それにしても高速道路だけではありません。下は河口湖から山口湖へ行く一般道路です。

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道路の左側に丈夫な鉄柵で区別した歩道がえんえんと続いていました。右側はあふれるような緑の樹海です。この道を設計し、作った人々へ感謝しながらゆっくり走りました。次は山中湖に沿った自転車道路の写真です。

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この自転車道路は、人が歩いたり、ランニングもして良いのです。左に無料駐車場が広くとってあります。いつもは都内で有料駐車場に入れるので、無料駐車場があると、それだけの理由で幸せになります。私は実に単純な男なのです。

素晴らしい道路は山中湖から道志村への抜ける道も同様です。道志道の青根から藤野へ抜ける山道も完全舗装の良い道です。日本中、何処へ行っても素晴らしい道路なのです。感動しています。感謝しています。

人間は何か立派な公共の施設を見ると、すぐに税金の使い過ぎだと怒りたくなります。

しかし私は怒るより感謝したくなります。感謝したほうが幸せになれるからです。

勿論、政治家や役人が私利私欲のために税金を勝手に無駄使いする事は厳しく糾弾すべきです。しかし道路は長い年月にわたって多くの人々が使う公共の財産なのです。子孫へ遺せる財産なのです。それを立派に作ることは決して間違っていません。それにしても高速道路の通行料金は高過ぎます。

それはしれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)