今日の読売新聞の17ページに、「全共闘運動 大学に反旗」という大きな見出しで、1968年に吹き荒れた大学闘争や学園紛争の全1ページ特集記事を掲載しています。
闘争が激しかった東京大学や日本大学の紛争の原因を実に正確に分析し、記録しています。同じ頃、フランスのパリ大学では学生が反乱し、「五月革命」が起きます。米国のコロンビア大学ではベトナム戦争反対を主張する学生が大学を占領し、封鎖します。
これは全て学生が学校を占拠し、封鎖し、正常な学校の運営を破壊する行為です。
私は当時、目黒にある工業大学の助教授でしたので、大学紛争では大学を締め出され、キャンパスには一歩も入れませんでした。正門や全ての出入り口に教室から運び出した机や椅子をうず高い積み上げて、人間が出入り出来ないようなバリケードを築いたのです。そして教職員は一人も学校内はは入れなかったのです。
その後、数カ月たってから、機動隊の前に立って、正門のバリケードを撤去することも体験しました。バリケードを撤去したのは教官であり、機動隊は単に教官の行為を支援したという形を作ったのです。当時はまだ「大学の自治」が強く主張されていて、警官がバリケードを撤去するとまずいという風潮があったのです。
東京大学では安田講堂の攻防戦があり、より激しい状態でした。その混乱の為に入学試験を1年間取り止めたのです。
この学園闘争は高校や、神学校まで広がり、それまであった日本の学校の精神文化を完全に破壊してしまったのです。先生は聖職でなくなりました。師弟愛など時代遅れの言葉になりました。中学、高校では先生の権威が地に落ち、保護者が先生の指導の仕方を声高に非難するようになったのです。
この学園闘争は日本の教育界における革命運動だったのです。
この頃、日本は経済成長の最中で、学園闘争のようなものは民間会社や官僚組織では一切ありませんでした。それは教育界でだけに起きた不思議な現象でした。
学園の立て看板には、中国語の「造反有理」という大きな字が書いてあります。その看板には他にもいろいろな事が中国の簡体字で書いてあったのです。
今日の読売新聞の17ページの、「全共闘運動 大学に反旗」という記事の内容に、私は非常に大きな不満があります。それぞれの学校の紛争のキッカケになった事はこと細かに描きだしていますが、本当の原因が中国の文化大革命だという指摘が一言半句も書いていないのです。こういうのを、「木を見て、森を見ない」と言うのです。
私はその後、1981年から中国へ何度も行きます。そして毛沢東が紅衛兵を動員して文化大革命という国内戦争を始めて、もう一度権力を手中に収めた経緯を詳しく聞きました。その文化大革命中に中国の大学で起きた闘争の仕方と内容があまりにも日本の大学紛争と酷似していたことに愕然としました。
私は瞬間的に判然としました。日本の学園闘争は中国の文化大革命の真似だったのです。あるいは日本社会を混乱に陥れるための中国の戦略だったのかもしれません。
中国の文化革命は複雑な内容を持っています。学園闘争はその一部に過ぎません。
ですから日本の学園紛争の原因の全てとは断言出来ません。例えば一部の学生はサルトルやゲバラの思想をもとに、さかんにアジっていた光景もありました。
しかし日本の学園闘争の大部分の原因は文化大革命にあったのです。
欧米崇拝・アジア蔑視の傾向がつよい当時の日本人は毛沢東の影響を正しく評価しなかったのです。
日本の全ての新しい社会動向の原因を全て欧米にあるとする安易な態度が日本人にあります。これこそ日本の国益を害する態度ではないでしょうか?
学園闘争のことを44年後の現在振り返ってみるといろいろな感概があります。
日本の教育界が失ったものがあまりにも大きかったような気がします。そして中国でで起きる事が、すぐに世界中へ流行した事に驚いています。世界は繋がっているという実感です。
しかし原理原則を言えば、全ての紛争や闘争は破壊的な結果になり、悪い影響の方が多いという事です。
それにしても毛沢東の影響力には驚いています。現在もネパールという国家では「ネパール共産党毛沢東派」が第一党になっていて、ネパールの王様を追放し、社会的混乱の原因になっているのです。カンボジアのポルポト一派も毛沢東崇拝者でした。
これも20世紀から続く、21世紀の歴史の一こまなのです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。
後藤和弘(藤山杜人)