大部分の人々には引退する時期が来ます。そうすると達観の境地という言葉をなんとなく意識するようになります。私も例外でなく60歳の頃からこの言葉を意識し始めました。
そして今年の1月に80歳になると急に「達観の境地」に憧れるようになりました。
達観という言葉の意味は以下のように説明されています。
1 広く大きな見通しをもっていること。遠い将来の情勢を見通すこと。
2 目先のことや細かなことに迷わされず、真理・道理を悟ること。俗事を超越し、さとりの境地で物事にのぞむこと。
私のような俗物には「達観の境地」はかなり無理なことは判っています。
しかしその境地になると、少しだけ幸せな気分になるではないかと思っています。
急にその境地にいたることは無理なので、私は以下のようなことを日常、実践する努力をしています。
(1)敵対する相手や喧嘩の相手を許し、自分から謝る。
敵対する相手が出来る原因は相手が無理無体なことを主張するからです。しかし相手の考え方に従うと、その無理無体が当然の正義なのです。
「私が悪いのです」と謝ってしまえば、その瞬間、謝っている自分が幸せになれます。
無理に謝るのが難しいときは「今は謝るが、いつかわからせる」と決心すれば謝れます。言葉の上だけでも謝れば、幸せな気分になれます。浅薄な私は言葉こそが大切だと思っています。
(2)7の7たび、すなはち49回、声を出して「仕返しをする」と独り言を言う。
我(が)の強い私は何時もこれを実行するように努力しています。「仕返しをする」と声を出して言うと不思議にが馬鹿らしくなるのです。どんな場合も馬鹿らしくなるわけではありません。
しかし夫婦喧嘩の場合は例外なく馬鹿らしくなります。すると心が平安になり小さな幸せを感じます。そして1番目の写真のような最近見た悠遊とした多摩川の流れを思い出すのです。
(3)自分が落ち込んだら、幸せな人々が沢山いる風景写真を思い出し、考える。
不幸な感じが心に湧いてきたときは、自分の過去で幸せな気分になれた場面のことを思い出すのです。過去と言ってもなるべく数日前の生々しい風景を考えるのです。
例えば2番目の写真には幸せそうな多くの家族が子供連れで釣りを楽しんでいる風景です。都心からこの多摩川上流のマス釣り場まで来るには朝早く子供達を起こして弁当を持って家を出なければなりません。そんな家族の会話を想像すると自分も幸せになります。新緑に覆われた釣り場からは楽し気な子供の声がかすかに響いて来ます。
幸せな場面の思い出はどんな不幸な人にも必ずあります。生きて来た限り必ずあるのです。
その幸せな気分になった場面を思い出したら不幸な現在も幸せになります。少なくとも気分だけは強くなれます。
(4)不幸を感じたら、その原因を分析し、追求しないことです。
よく過去は忘れなさい。将来のことだけを考えなさい。そんな言葉があります。この言葉の実行する具体的な方法が、「不幸を感じたら、その原因を分析し、追求しない」ことです。
自分が不幸になったのは親のせいだ、悪妻のせいだ。子供が問題児だから自分は不幸だ。あるいは職場の上司が悪い奴なので自分は不幸だ。生まれつき自分のルックスが悪いから一生不幸だ。このように不幸な原因は数限りあります。少なくとも私には数限りあります。
自分が不幸になった原因を分析し、考察して行くとかならず自分以外の他人を悪人にせざるを得ません。その他人をあなたは恨みます。恨んでいるかぎり心の平安はありません。ですから心の中から恨みを完全に取り除くためには自分の不幸の原因を考えないことが鉄則です。
(5)自分が家族と友人から愛されていると声を出して独り言を言う。
子供が遠方に住んでいてめったに会いに来ない。可愛かった孫達が部活が忙しくなって姿が見えなくなった。妻が年のせいか夫婦愛が冷たくなったようだ。遠方に住んでいる友人たちから手紙も来ない。
どうも自分は誰からも愛されていないと感じるのが老境の特徴かも知れません。
そんな時には、「自分は家族や友人の全てから愛されている」と声を出して独り言を言うのです。すると幸せな気分になれます。少なくとも、この文章を書いている私はこの瞬間本当に幸です。そして3番目の写真のような新緑の山並の上にある白い雲へ想いを馳せるのです。
最後に1つの重要なことをかきます。
上のように気楽なことばかり書くと「それでは生まれつき貧しかったり、ハンディキャップを持って生まれたきた人々はどうすれば良いのか?」という質問が必ず出ます。
そいう境遇に生まれたことは重大な不幸に違いありません。それは私も認めます。しかしそんな境遇でも上に書いた5つの方法は必ずや役に立つと私自身は信じています。
最後に蛇足を一つ。これを読む家内は吹き出してしまうでしょう。私が上に書いてある通りの実行していないからです。しかし十分の一くらいは実行しています。なんと言っても「達観の境地」に憧れているのですから。
達観の境地とはすぐに飛んで行って入れるのでは無く、一見、関係の無いような上記の5つのことを実行する努力の積み重ねでやっと到達出来る境地だと私は信じています。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
そして今年の1月に80歳になると急に「達観の境地」に憧れるようになりました。
達観という言葉の意味は以下のように説明されています。
1 広く大きな見通しをもっていること。遠い将来の情勢を見通すこと。
2 目先のことや細かなことに迷わされず、真理・道理を悟ること。俗事を超越し、さとりの境地で物事にのぞむこと。
私のような俗物には「達観の境地」はかなり無理なことは判っています。
しかしその境地になると、少しだけ幸せな気分になるではないかと思っています。
急にその境地にいたることは無理なので、私は以下のようなことを日常、実践する努力をしています。
(1)敵対する相手や喧嘩の相手を許し、自分から謝る。
敵対する相手が出来る原因は相手が無理無体なことを主張するからです。しかし相手の考え方に従うと、その無理無体が当然の正義なのです。
「私が悪いのです」と謝ってしまえば、その瞬間、謝っている自分が幸せになれます。
無理に謝るのが難しいときは「今は謝るが、いつかわからせる」と決心すれば謝れます。言葉の上だけでも謝れば、幸せな気分になれます。浅薄な私は言葉こそが大切だと思っています。
(2)7の7たび、すなはち49回、声を出して「仕返しをする」と独り言を言う。
我(が)の強い私は何時もこれを実行するように努力しています。「仕返しをする」と声を出して言うと不思議にが馬鹿らしくなるのです。どんな場合も馬鹿らしくなるわけではありません。
しかし夫婦喧嘩の場合は例外なく馬鹿らしくなります。すると心が平安になり小さな幸せを感じます。そして1番目の写真のような最近見た悠遊とした多摩川の流れを思い出すのです。
(3)自分が落ち込んだら、幸せな人々が沢山いる風景写真を思い出し、考える。
不幸な感じが心に湧いてきたときは、自分の過去で幸せな気分になれた場面のことを思い出すのです。過去と言ってもなるべく数日前の生々しい風景を考えるのです。
例えば2番目の写真には幸せそうな多くの家族が子供連れで釣りを楽しんでいる風景です。都心からこの多摩川上流のマス釣り場まで来るには朝早く子供達を起こして弁当を持って家を出なければなりません。そんな家族の会話を想像すると自分も幸せになります。新緑に覆われた釣り場からは楽し気な子供の声がかすかに響いて来ます。
幸せな場面の思い出はどんな不幸な人にも必ずあります。生きて来た限り必ずあるのです。
その幸せな気分になった場面を思い出したら不幸な現在も幸せになります。少なくとも気分だけは強くなれます。
(4)不幸を感じたら、その原因を分析し、追求しないことです。
よく過去は忘れなさい。将来のことだけを考えなさい。そんな言葉があります。この言葉の実行する具体的な方法が、「不幸を感じたら、その原因を分析し、追求しない」ことです。
自分が不幸になったのは親のせいだ、悪妻のせいだ。子供が問題児だから自分は不幸だ。あるいは職場の上司が悪い奴なので自分は不幸だ。生まれつき自分のルックスが悪いから一生不幸だ。このように不幸な原因は数限りあります。少なくとも私には数限りあります。
自分が不幸になった原因を分析し、考察して行くとかならず自分以外の他人を悪人にせざるを得ません。その他人をあなたは恨みます。恨んでいるかぎり心の平安はありません。ですから心の中から恨みを完全に取り除くためには自分の不幸の原因を考えないことが鉄則です。
(5)自分が家族と友人から愛されていると声を出して独り言を言う。
子供が遠方に住んでいてめったに会いに来ない。可愛かった孫達が部活が忙しくなって姿が見えなくなった。妻が年のせいか夫婦愛が冷たくなったようだ。遠方に住んでいる友人たちから手紙も来ない。
どうも自分は誰からも愛されていないと感じるのが老境の特徴かも知れません。
そんな時には、「自分は家族や友人の全てから愛されている」と声を出して独り言を言うのです。すると幸せな気分になれます。少なくとも、この文章を書いている私はこの瞬間本当に幸です。そして3番目の写真のような新緑の山並の上にある白い雲へ想いを馳せるのです。
最後に1つの重要なことをかきます。
上のように気楽なことばかり書くと「それでは生まれつき貧しかったり、ハンディキャップを持って生まれたきた人々はどうすれば良いのか?」という質問が必ず出ます。
そいう境遇に生まれたことは重大な不幸に違いありません。それは私も認めます。しかしそんな境遇でも上に書いた5つの方法は必ずや役に立つと私自身は信じています。
最後に蛇足を一つ。これを読む家内は吹き出してしまうでしょう。私が上に書いてある通りの実行していないからです。しかし十分の一くらいは実行しています。なんと言っても「達観の境地」に憧れているのですから。
達観の境地とはすぐに飛んで行って入れるのでは無く、一見、関係の無いような上記の5つのことを実行する努力の積み重ねでやっと到達出来る境地だと私は信じています。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)