後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

80歳になり、達観の境地に憧れる

2016年05月06日 | 日記・エッセイ・コラム
大部分の人々には引退する時期が来ます。そうすると達観の境地という言葉をなんとなく意識するようになります。私も例外でなく60歳の頃からこの言葉を意識し始めました。
そして今年の1月に80歳になると急に「達観の境地」に憧れるようになりました。
達観という言葉の意味は以下のように説明されています。
1 広く大きな見通しをもっていること。遠い将来の情勢を見通すこと。
2 目先のことや細かなことに迷わされず、真理・道理を悟ること。俗事を超越し、さとりの境地で物事にのぞむこと。
私のような俗物には「達観の境地」はかなり無理なことは判っています。
しかしその境地になると、少しだけ幸せな気分になるではないかと思っています。
急にその境地にいたることは無理なので、私は以下のようなことを日常、実践する努力をしています。
(1)敵対する相手や喧嘩の相手を許し、自分から謝る。
敵対する相手が出来る原因は相手が無理無体なことを主張するからです。しかし相手の考え方に従うと、その無理無体が当然の正義なのです。
「私が悪いのです」と謝ってしまえば、その瞬間、謝っている自分が幸せになれます。
無理に謝るのが難しいときは「今は謝るが、いつかわからせる」と決心すれば謝れます。言葉の上だけでも謝れば、幸せな気分になれます。浅薄な私は言葉こそが大切だと思っています。
(2)7の7たび、すなはち49回、声を出して「仕返しをする」と独り言を言う。
我(が)の強い私は何時もこれを実行するように努力しています。「仕返しをする」と声を出して言うと不思議にが馬鹿らしくなるのです。どんな場合も馬鹿らしくなるわけではありません。
しかし夫婦喧嘩の場合は例外なく馬鹿らしくなります。すると心が平安になり小さな幸せを感じます。そして1番目の写真のような最近見た悠遊とした多摩川の流れを思い出すのです。

(3)自分が落ち込んだら、幸せな人々が沢山いる風景写真を思い出し、考える。
不幸な感じが心に湧いてきたときは、自分の過去で幸せな気分になれた場面のことを思い出すのです。過去と言ってもなるべく数日前の生々しい風景を考えるのです。
例えば2番目の写真には幸せそうな多くの家族が子供連れで釣りを楽しんでいる風景です。都心からこの多摩川上流のマス釣り場まで来るには朝早く子供達を起こして弁当を持って家を出なければなりません。そんな家族の会話を想像すると自分も幸せになります。新緑に覆われた釣り場からは楽し気な子供の声がかすかに響いて来ます。

幸せな場面の思い出はどんな不幸な人にも必ずあります。生きて来た限り必ずあるのです。
その幸せな気分になった場面を思い出したら不幸な現在も幸せになります。少なくとも気分だけは強くなれます。
(4)不幸を感じたら、その原因を分析し、追求しないことです。
よく過去は忘れなさい。将来のことだけを考えなさい。そんな言葉があります。この言葉の実行する具体的な方法が、「不幸を感じたら、その原因を分析し、追求しない」ことです。
自分が不幸になったのは親のせいだ、悪妻のせいだ。子供が問題児だから自分は不幸だ。あるいは職場の上司が悪い奴なので自分は不幸だ。生まれつき自分のルックスが悪いから一生不幸だ。このように不幸な原因は数限りあります。少なくとも私には数限りあります。
自分が不幸になった原因を分析し、考察して行くとかならず自分以外の他人を悪人にせざるを得ません。その他人をあなたは恨みます。恨んでいるかぎり心の平安はありません。ですから心の中から恨みを完全に取り除くためには自分の不幸の原因を考えないことが鉄則です。
(5)自分が家族と友人から愛されていると声を出して独り言を言う。
子供が遠方に住んでいてめったに会いに来ない。可愛かった孫達が部活が忙しくなって姿が見えなくなった。妻が年のせいか夫婦愛が冷たくなったようだ。遠方に住んでいる友人たちから手紙も来ない。
どうも自分は誰からも愛されていないと感じるのが老境の特徴かも知れません。
そんな時には、「自分は家族や友人の全てから愛されている」と声を出して独り言を言うのです。すると幸せな気分になれます。少なくとも、この文章を書いている私はこの瞬間本当に幸です。そして3番目の写真のような新緑の山並の上にある白い雲へ想いを馳せるのです。

最後に1つの重要なことをかきます。
上のように気楽なことばかり書くと「それでは生まれつき貧しかったり、ハンディキャップを持って生まれたきた人々はどうすれば良いのか?」という質問が必ず出ます。
そいう境遇に生まれたことは重大な不幸に違いありません。それは私も認めます。しかしそんな境遇でも上に書いた5つの方法は必ずや役に立つと私自身は信じています。

最後に蛇足を一つ。これを読む家内は吹き出してしまうでしょう。私が上に書いてある通りの実行していないからです。しかし十分の一くらいは実行しています。なんと言っても「達観の境地」に憧れているのですから。
達観の境地とはすぐに飛んで行って入れるのでは無く、一見、関係の無いような上記の5つのことを実行する努力の積み重ねでやっと到達出来る境地だと私は信じています。


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

新緑美しい奥多摩湖に秘められた3つの悲劇

2016年05月06日 | 日記・エッセイ・コラム
奥多摩湖は多摩川を遡った山の奥にある雄大な湖です。昨日、朝起きてみたら風薫る皐月晴れです。新緑に囲まれた奥多摩湖は美しいに違いありません。行く決心をしました。
自宅から立川、福生、羽村の堰、青梅、御岳駅前と旧奥多摩街道を根気よく2時間余ドライブすると山奥にある奥多摩湖に着きます。
予想していたとうり新緑に囲まれた湖は碧く輝いています。入り組んだ湖水に若々しい緑が覆いかぶさり夢幻の世界です。新緑のほのかな佳い香りが風に乗って車の窓から入ってきます。
この湖は高速道路も無い山奥の不便な場所にあるので数年行きませんでした。しかし若い頃は家族とともに何度も遊びに行った曽遊の地です。湖岸にそった道路をゆっくり走っていると若い頃の楽しい思い出が次々と蘇ってきます。そんな奥多摩湖の昨日の風景を1、2、3番目の3枚の写真で示します。





甲府へ抜ける柳沢峠の街道を脇にそれて入り組んだ湖岸に沿って走ってみました。
そうしたらその奥に普門禅寺というお寺があるのです。急な石段の上を見上げると江戸時代風の山門が若葉に囲まれて見えます。説明板によると寛永年間に建てられた山門です。
4番目の写真にその山門の写真を示します。

身軽な家内は急な石段を登ってお寺の本堂の写真を撮りに行ってしまいました。
静かになったので周囲を散歩しましたら5番目のような石碑を見つけました。

文章を要約すると、岩崎貞夫という共産党員が山村工作員として1951年にこの小河内村の山地に住み込んで、1953年に35歳で亡くなったと書いてあります。
ダム湖の底に沈む村人達を救うためにダム建設に命を賭けて反対運動をしたのです。
その共産主義は別にして他人を救うために35歳の命を捧げたのです。若者の死はいつの時代でも悲しいことです。悲劇です。
この石碑を見ていろいろな事を思い出しました。
この巨大なダムは1936年に着工され1957年に完工したのです。

第2の悲劇は旧小河内村と山梨県丹波山村及び小菅村の945世帯約6,000人が強制的に移転させられたのです。そして小河内村は、その大部分が水没しました。普門禅寺の山門も湖底に沈む運命でしたが、村人たちの懇願により小高い場所に移築されたのです。
6番目の写真に旧小河内村の風景を示します。

この旧小河内村の悲劇は小説や歌にもなりました。1937年には旧小河内村を歌った「湖底の故郷」(島田磐也作詞・鈴木武雄作曲・東海林太郎唄)がレコード発売され大ヒットしたのです。
そして戦後、ダム建設の工事が再開されると反対運動が激しく燃え上がったのです。
その一つに当時の共産党の山村工作隊があったのです。
1950年に日本共産党東京都委員会は小河内ダム対策委員会を設置しました。そして1952年になると、 日本共産党はダム破壊活動を目的とした山村工作隊を派遣したのです。
上に書いた岩崎貞夫はその山村工作員の先遣隊の一員でした。人間的に立派だったようで普門禅寺の住職に気に入られ石碑が立てられたのです。
しかしダム破壊活動は1952年の3月29日以降警察による一連の逮捕により失敗に終わったのです。

そして第3の悲劇とはダム建設によって下請作業員ら87名が殉職したことです。現在では湖畔に慰霊碑が建てられていますが、その殉難者名を見ると実の多くの朝鮮特有の姓名があるのです。
7番目の写真にその殉難者の慰霊碑の写真を示します。

今日の記事の表題の「新緑美しい奥多摩湖に秘められた3つの悲劇」の3つの悲劇とは、
1、ある山村工作員が35歳の若さで死んでしまった、
2、旧小河内村と山梨県丹波山村及び小菅村の945世帯約6,000人が強制的に移転させられた、
3、朝鮮出身者を含む87名が殉職した、
この3つの悲劇です。
現在、新緑美しいこの奥多摩湖に遊びに来る若い家族連れは多分この湖にまつわる悲しいことを知らないでしょう。
そして戦前、戦後の混乱の日本の歴史のなかの1ページとして次第に忘れられて行く運命にあるのでしょう。
地球は悲しみの満ちた器だという言葉を思い出します。そして新緑と碧い湖を見ながらゆっくりと車を走らせてきました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)