後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

信仰に入るには宗教に接するチャンスと 修行による良い洗脳

2016年05月21日 | 日記・エッセイ・コラム
毎週、日曜日には宗教のことを少しだけ簡明に書くようにしています。宗教を持たない方々と信じる方々の間に違和感が無くなり、皆が平穏に暮らせるように願って書いています。
宗教は良いものか悪いものか私には分かりません。ですから宗教を薦める気持ちは毛頭ございません。それは人それぞれ自然体で考えるべきもので他人へ宣伝したり強制したりすべきものではありません。ですから今日の文章を気楽に眺めて頂ければ幸いです。ある静かな風景をご覧になるように眺めて、忘れて頂きたいのです。
今日の文章の趣旨は宗教を信じるにはそれと偶然接するチャンスがあることが重要ですということです。そしてほんの少しだけ勉強や修行をすることも重要です。すると自発的に洗脳されます。他人から強制された洗脳ではありません。これを私は良い洗脳と言います。
信仰には、(1)宗教に接するチャンス、(2)修行、(3)自発的な良い洗脳、の3つが偶然そろうことが重要です。これが趣旨です。
しかしこの趣旨は私個人の体験からの結論ですから全く普遍性はありません。自分の体験であり他人の場合は間違った考えかたになると存じます。
それでは私はこの3つのことをどのような偶然から体験したのでしょうか?
(1)宗教に接するチャンス、
まったく個人的なことですが、私の父方の祖父は兵庫県の宝塚から能勢電鉄で入った山の村落のお寺の住職をしていました。それは曹洞宗の正林寺というお寺でした。その祖父は戦前に亡くなり、父の弟が後を継ぎました。その祖父の戒名は高天秀嶽大和尚といいます。
昭和11年生まれの私は毎年、夏になると一家でそのお寺に帰省し、お寺の暮らしを体験しました。
お寺の暮らしが珍しい上に、お盆には施餓鬼供養という一大イベントを毎年見たのです。近隣のお寺から多くのお坊さんが集まって、本堂でお経を唱和し、そして銅鑼を鳴らしながら輪になって歩き、お経を唱えるのです。
そして叔父の住職さんと一緒に小坊主の法衣を来て、村落の一軒、一軒を回り、お盆のお経を詠んだのです。
これが私の宗教に接するチャンスでした。中年になってからカトリックの洗礼を受けましたが、上に書いた偶然お寺の住職の孫に生まれたことが洗礼へと繋がったと私は考えています。カトリックになったのは偶然会ったインド人の若者が毎週教会のミサへ連れて行ってくれたからです。それは全て偶然の重なりだったのです。
考えてみると私のカトリック信仰には仏教の影響を深く受けているのです。それは偶然の重なりの始めが仏教と接する幼児経験だったので仕方のないことです。
(2)いささかの勉強と修行、
これも偶然ですがある時、隠れキリシタンの研究で有名な片岡弥吉さんの本を何冊か読みました。感動して片岡弥吉さんへ手紙を出しました。そうしたらとても温かい内容の長い手紙が返ってきたのです。それがキッカケで隠れキリシタン関連の本を沢山読みました。特に遠藤周作の「沈黙」という本には感動しました。これらの読書が「いささかの勉強」になったのです。
それでは修業とはどういうことをしたのでしょうか?修行とは仏教用語ですが、キリスト教では宗教的訓練と言うようです。
教会に通う、牧師さんや神父さまの話を長時間聞く、巡礼をするなどが宗教的訓練になります。
特別なことはしませんでしたが洗礼を受ける2年位前からカトリックの教会に毎週通ったのです。その延長で1969年の秋にドイツのある小さな町で偶然インド人の若者と知り合い、毎週一緒にミサに行ったのです。
それが洗礼を受ける決心をした最後の修行になりました。
(3)自発的な良い洗脳、
洗礼を受けた後も自発的に毎週45年間、ミサへ行っています。すると不思議な偶然がいろいろと重なって起きたのです。
一つだけ書きます。私共は1971年にカトリック立川教会で塚本金明神父さまから洗礼を受けました。その時、私の代父をして下さった山本大二郎さんが毎年、何十年も年賀状を下さったのです。その賀状には必ず多摩地方の小さな花の写真が印刷してあったのです。
この何気ない年賀状が私を洗脳してくれたのかも知れません。
そしてこの代父のご子息さんがカトリックの神父に叙階されたのです。その方は山本量太郎神父さまですが、15年ほど前、私共の通っているカトリック小金井教会の主任司祭として着任して来たのです。山本量太郎神父さまは10年間、小金井の主任司祭をしてから本部の教会の主任司祭となって帰って行かれました。しかも、このブログを時々ご覧頂いています。
このような偶然の重なりは一つの例ですが、私が良い洗脳を受ける一つのキッカケになっていると考えられます。

上に書きましたように宗教を信じるようになるためには3つの偶然が重なりあうことが重要と思います。3つの偶然とは(1)宗教に接するチャンス、(2)いささかの勉強と修行、(3)自発的な良い洗脳、のことです。

宗教は良いものか悪いものか私には分かりません。ですから宗教を薦める気持ちは毛頭ございません。
今日の挿し絵代わりの写真は去年の4月に訪問した五島列島の5つの教会の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料=================
五島列島は本当に遠い離れ島です。遥かに憧れて数十年、昨年、4月にやっと2泊3日の旅で訪れることが出来ました。長崎の活水大学の教授だった片岡弥吉氏のキリシタンに関する数々の本や遠藤周作氏の「沈黙」などのカトリック関連の著書を読んで以来一度は訪れるべき場所として長らく心に決めて憧れていました。
長崎から小さい旅客機で下五島の福江に渡り、そこに一泊しました。2日目は海上タクシーで上五島に渡りそこに泊まりました。
3日間、観光バスで五島列島の険しい山々を越えて岬と岬の間にある小さな集落を幾つも巡り5つのカトリック教会を訪ねました。五島列島には全部で50ケ所のカトリック教会がありますので、訪問したところはそのほんの一部にすぎません。
そして五島列島という大きな島を巡りいろいろな問題を考えてきました。
ここには古い日本の文化が残っています。しかし過疎化や経済の低迷など現代の問題も抱えているのです。
そしてこの島は遣唐使以来、中国大陸への航海の最後の寄港地として弘法大師の空海や伝教大師の最澄が風待ちで長く逗留した場所でもあります。仏教も盛んな土地です。立派な神社もあります。
その上、山上憶良のこの地にまつわる歌もあるのです。従って五島列島は万葉集時代から文化交流の十字路として重要な島だったのです。キリシタン信仰はずっと後になって江戸時代から入ってきたのです。
現在、五島列島は福江のある下五島を五島市といい上五島は上五島町という2つの自治体になっていて上五島と下五島の人口の総数は約7万人です。
下五島のカトリック信者は人口の約10%で、上五島は25%位と言われています。
たった7万人の住民にたいして50もの教会が存在するのです。


上の1番目の写真は井持浦天主堂です。

上の2番目の写真は堂崎天主堂です。

上の3番目の写真は青砂ケ浦天主堂です。

上の4番目の写真は頭ケ島天主堂です。

上の5番目の写真は中ノ浦天主堂です。





風景が変わってしまった、故郷も消えてしまった!

2016年05月21日 | 日記・エッセイ・コラム
あちこちへ出かけて行き美しい風景写真を撮ってブログに掲載するのが私の趣味です。あまり体力もいらないので老後の趣味には良いと思っています。
この風景写真を撮る時に一番苦労するのは高圧電線や、その鉄柱です。それが写真に入ると美しい風景が台無しになってしまうのです。電線は街中の頭上にも縦横無尽に走っています。美しい街の風景も台無しです。
風景写真の邪魔になるものは電線だけではありません。高架の高速道路や新幹線が横切っていて風景の邪魔をします。俗悪なホテルや風情の無い家などが視野に入ってしまいます。
ですから風景写真を撮るときは車を停めて、あちこち歩き回って電線が視野に入らない場所を探します。下の1番目の写真は先日撮った富士山です。電線が無くて、手前に芽吹き始めた木々の見える場所を探す苦労をしました。

このように風景写真を撮っていると、つくづく日本の風景が変わってしまったと思います。
電線や高速道路が風景を変えただけでなく、昔風の家々が洒落た洋風の一戸建てになりマンションのビルになってしまったのです。
都会では古臭い赤レンガのビルが消え、白い清潔な高層ビルが林立し、昔の街の面影がすっかり消えてしまいました。
故郷を離れた人々が久しぶりに帰省してみると故郷の風景の変貌ぶりに驚きます。故郷の風景が消失したようです。
皆様はそのような経験をされたことはありませんでしょうか?
私は戦前に仙台で生まれ、戦後にそこで育ったので、仙台に行く度に故郷が消えてしまったような気分になります。
我がふるさと、仙台が見知らぬ白い街になってしまったのです。
仙台を出て茫々56年。甘い追憶の中の故郷、仙台は消えて失くなってしまったのです。
あれは確か2010年の10月のことでした。久しぶり仙台に行き、思い出をたどりながら町々を歩き回ったのです。
ただ高いビル群の見知らぬ白い街が広がり、大きな道路には沢山の車が容赦なく疾走しているだけです。道行く人々は足が長く、見知らぬ外国人のように速足に過ぎ行くばかりです。以前は同級生や知り合いに、二人三人と、偶然会ったものでした。みんな何処かへ行ってしまったようです。
繁華街の一番丁の店もすっかり名前が変わっています。昔と変わらない お茶屋の井ケ田屋と コーヒー店のエビアンが存続していましたが、後は全て消えてしまったようです。
消えてしまったふるさとの街を歩く寂寥感が身に沁みます。
2番目の写真に青葉城跡の高台から見た仙台の風景を示します。

この白いビルの並ぶ風景は見知らぬ風景です。以前の仙台は杜の都と呼ばれていました。大きな街路樹や庭木が昔風の家々を覆っていました。その緑の間から赤レンガの県庁のビルや裁判所のビルが見えるだけでした。
街の風景が変わっただけではありません。子供の頃遊んだ秘密の場所がすっかり変わってしまっていたのです。
昔住んでいた家は伊達政宗の廟所のある経ケ峯という小山のそばにあったのです。政宗から三代までの廟所のある杉木立の暗い淋しい山でした。
戦争で忙しい大人達はめったに足を向けない森閑とした場所です。そのうち戦災で廟が焼失しました。
その跡に粗末な白木のお堂が立っているだけでした。
そこへ独り登ると、そこは私の天下です。隠れ家です。誰にも拘束されない自由の空間でした。遠方で鳴くセミの声を聞くだけです。ゆっくり石段を降り、下馬の明るい広場へ出ます。
その先には評定河原へ渡る一銭橋がありました。広瀬川へ遊びに行くお決まりの道だったのです。私の大切にしていた思い出の聖地でした。
それが先日行ったら金ぴかの桃山調の瑞鳳殿という豪華な廟堂になっています。
3番目の写真が立派に改装された瑞鳳殿の写真です。

そしてこの瑞鳳殿は仙台観光の目玉らしく、観光客がゾロゾロと歩いています。
私は何故か悲しくなり、中に入る勇気が出ません。幼少の頃の私の大切な場所を観光客に奪われてしまったような気分になってしまったのです。
そんな感じ方はまったく理不尽なことは判っています。
家内だけが一人の観光客になって気楽に中に入って楽しそうに見物しています。

しかし一方、自然の景色だけは変わらないで残っている場所もありました。
4番目の写真は仙台城から見た政宗の廟所のある経ケ峯の写真です。

この写真の左に写っている高層ビル群は別にして白い断崖のある経ケ峯の風景だけは昔のままです。
そして5番目の写真は現在の評定河原の一銭橋の上から見た広瀬川の上流方向の写真です。

川原に樹木が茂っている風景やその向こうの青葉山は昔のままです。右手の白い住宅は56年前もあった公務員住宅でした。

さて変わったものは風景だけではありません。
昔の仙台の名産品は仙台平という絹織物でした。埋木細工でした。笹蒲鉾でした。仙台駄菓子でした。
この昔の仙台の名産品は、笹蒲鉾以外、全部消えてしまいました。
最近、急に仙台の名物が、牛タン焼になったのです。
老人の私は牛タンが名物だとは信じません。牛タン焼を食べるために仙台へ観光旅行へ行く人々が沢山います。そんなニュースを聞く度に何故か、「それは違う」とつぶやきます。
牛タンは美味しいものです。それは知っています。しかし私は仙台では絶対に食べないようにしています。老人の頑固です。

日本全国各地の名物が年月と共に変わって行きます。
それで地域振興が出来ることは大変良い事です。大歓迎です。しかし名産品が変わっていくことが何故か淋しいのです。
そして人々も忙しく変わって行きます。風景も名産品も変わってしまった仙台は私のふるさとは違う気分です。
大袈裟に言えば私の故郷は完全に消失してしまったのです。
しかし私は静かな心でそれを受け入れています。輪廻転生です。
しかも自然の景観だけは何時までも同じです。仙台は良い所だと思います。

皆様のふるさとは変わったでしょうか?どのようなふるさとでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。後藤和弘(藤山杜人)