後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

日本の原風景、夕焼け小焼けの里

2016年05月20日 | 日記・エッセイ・コラム
日本には幼い頃の故郷の風景や思い出を描いた童謡や歌が幾つかあります。
例えば、「夕焼け小焼けで日が暮れて・・・」で始まる歌や、「夕焼け小焼けの赤とんぼ・・・」や「うさぎ追いしかの山・・・・」などなど幾つもあります。
これらの郷愁をそそる童謡は大人になっても口ずさみ唄われています。
ですから童謡の中の故郷は日本の原風景として人々の心に焼き付いています。
故郷は懐かしく甘い思い出に満ちています。皆様はどんな故郷の風景や思い出をお持ちでしょうか?
一昨日、そんな想いで八王子市の浅川を遡って旧恩方村にある「夕焼け小焼けふれあいの里」という野外公園施設に行きました。
「夕焼け小焼けで日が暮れて・・」という歌詞を作った中村雨紅の出身地です。
この童謡を口ずさみながら五月晴れの旧恩方村にある公園を散歩して来ました。

『夕焼小焼』
夕焼け小焼けで日が暮れて
山のお寺の鐘が鳴る
お手々つないで皆帰ろ
烏と一緒に帰りましょ

子供が帰った後からは
円い大きなお月さま
小鳥が夢を見る頃は
空にはきらきら金の星

この童謡は野口雨情の弟子の中村雨紅が故郷恩方の風景を歌ったものです。1919年(大正8年)作詞し、1923年(大正12年)に草川信が曲をつけました。
「夕焼け小焼けふれあいの里」という公園の散策とともに中村雨紅の生家の宮尾神社まで登り記念碑の写真も撮ってきました。
写真をご覧になりながら中村雨紅の故郷、恩方の風景をお楽しみ下さい。

1番目の写真は中村雨紅の故郷、恩方村の新緑美しい山々の景色です。

2番目の写真は「夕焼け小焼けふれあいの里」という野外公園の中の芝生広場です。

3番目の写真は「夕焼け小焼けふれあいの里」の中にある水車小屋の風景です。

4番目の写真は江戸時代の甲州街道の裏街道の口留番所あとの碑です。番所跡の碑と松姫の碑とが並んでいます。武田信玄が娘の一人、松姫を恩方村の豪族に嫁がせ国境の守りとした歴史があるのです。

5番目の写真は中村雨紅の生まれた家のある宮尾神社の前にある記念碑です。雨紅の喜寿の記念に友人たちが建てた碑です。
尚宮尾神社までの急坂は長く険しいのでこの写真は家内に撮りに行って貰いました。
ついでにご案内しますと「夕焼け小焼けふれあいの里」には日帰り温泉や売店や宿泊棟やバーベキュー広場もあります。ポニー牧場もあります。天気の良い日は家族連れでゆっくり散策して楽しめる野外施設です。無料駐車場があり施設の入園料は大人1人、200円です。

それはさておき、皆様はどのような故郷の思い出をお持ちでしょうか?沢山思い出があると存じますが、幼少の頃の思い出の一つだけでもお知らせください。お待しています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料============
中村雨紅(なかむら うこう、1897年〈明治30年〉1月7日<戸籍上は2月6日> - 1972年〈昭和47年〉5月8日)は、詩人・童謡作家である。本名は、井宮吉(たかい みやきち)だが、出版物など一般的には高井宮吉と記される。東京府南多摩郡恩方(おんがた)村(現在の東京都八王子市上恩方町)出身。
宮尾神社の宮司・井丹吾とその妻・シキの間の二男として生まれる。1909年(明治42年)上恩方尋常小学校(現・恩方第二小学校)を卒業し、1911年(明治44年)恩方村報恩高等小学校を卒業して、1916年(大正5年)東京府青山師範学校卒業後、その年に東京北豊島郡日暮里町第二日暮里小学校の教師になる。1917年(大正6年)おばの家である中村家の養子となる(1923年解消)。翌年、日暮里町第三日暮里尋常小学校に転勤。1921年(大正10年)高井宮のペンネームで童謡『お星さん』などが児童文芸雑誌『金の船』に掲載される。1923年(大正12年)『夕焼小焼』を発表。同年、漢学者本城問亭の次女千代子と結婚。1924年(大正13年)長男・喬が生まれる。1926年(大正15年)日本大学高等師範部を卒業後、神奈川県立厚木実科高等女学校(現・厚木東高校)の教師となる。1927年(昭和2年)長女・緑が生まれる。この間、野口雨情に師事し、その名前の「雨」の一字をもらい、雨紅と称する。1949年(昭和24年)教師を退職。1971年(昭和46年)神奈川県立厚木病院に入院、翌年5月6日逝去。享年75。八王子市上恩方町・宮尾神社南、井丹雄墓所内に埋葬。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E9%9B%A8%E7%B4%85)