後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

欧米人に自慢したい日本の文化(1)お盆での死者との交流

2016年05月23日 | 日記・エッセイ・コラム
地球上には実にいろいろな文化が花咲いています。大別すると東洋文化、西洋文化、中東文化、アフリカ文化、その他になると思います。
この中で私が比較的よく知っているのが日本の文化と欧米の文化です。両方に在住した経験のある私にとっては比較しやすい2つの文化です。そこで今日から、「欧米人に自慢したい日本の文化」と題する連載記事を気楽に書いて行きたいと思います。
自慢したい日本文化は私自身の趣味と好みで勝手に選んだものですから異論がありましても どうぞ寛容にお許し下さい。
第一回目の今日は夏のお盆での亡くなった先祖と家族の交流の風習を取りあげます。お盆になると、家族は亡くなった先祖を家に来てもらい、歓迎し感謝し冥福を祈るのです。そして亡くなった先祖は家に帰ってきて、家族の傍らに立ち、その幸せを祈るのです。
お盆が終わると先祖さまは又彼岸に帰って行きます。
私の考えでは、お盆の風習は欧米人へ自慢したい美しい日本の文化の一つなのです。
一方、欧米人も亡くなった家族の墓詣りをして、故人を偲びます。故人が生き返ってきて話をしてくれることを夢見ます。ですから日本人のお盆の風習を理解出来ます。羨ましいと思うでしょう。それが自然の人情というものです。
それではもう少し詳しく書いてみましょう。
夏になると地方、地方で違ういろいろなお盆の行事があります。先祖の霊を迎え、霊をなぐさめ供養するのです。
ご先祖さまをなぐさめるためにいろいろなお供え物を捧げます。そして盆踊りを楽しんで貰います。青森では佞武多(ねぶた)も楽しんでもらいます。
この世とあの世の行き来の乗り物としてキュウリやナスで作った牛や馬をを飾ります。
迎え火で亡くなった家族の霊を家に迎えます。盆の行事がすむと送り火でご先祖様たちをあの世へ送ります。精霊流しで霊が安らかにあの世に帰るのを祈るのです。
この風習は日本人の優しさの象徴のようなものです。
幻想的で美しい行事がそれぞれの地方でおこなわれるのです。そこで一つの例として「盆踊り」を取り上げてみます。
盆踊りはどんなに騒がしくても死者への捧げものなので一抹の哀愁がこもっているようです。
たとえば激しい踊りの郡上八幡の盆踊りの中にも淋しい曲と所作が混じっています。
私が見たいろいろな盆踊りの中で一番印象深いものは富山県のおわら風の盆です。
踊り手の女性は笠を深くかぶり、絶対に顔を見せません。姿だけの踊りで先祖の霊を供養するのです。男衆の踊りも凛々しく落ち着いたもので、何故か淋しげな表情で三味線や胡弓を弾きます。
通りに面した家々は電燈を消して静かにしています。
ああ、これが本来の盆踊りなのだと感動したことが忘れられません。
その風の盆の写真を3枚お送りいたします。





この3枚の写真の出典は以下の通りです; 富山市八尾町のおわら風の盆:http://henmi42.cocolog-nifty.com/yijianyeye/2014/08/post-8c8c.html
お盆に行われることは盆踊りだけではありません。
地方によっては「施餓鬼」(せがき)と呼ばれ、餓鬼道に陥った亡者を救ったり、餓鬼棚と呼ばれる棚を作り、道ばたに倒れた人の霊を慰めるなどの風習もこの頃に行われます。
また、盆提灯と呼ばれる特別な提灯を仏壇の前に飾ったり、木組に和紙を貼り付けた灯篭を流す灯篭流しや、提灯を小船に乗せたようなものを川などに流す精霊流しを行う場合もあります。
特に長崎県長崎市では精霊船を曳き、市内を練り歩くのが有名です。
特殊な例として盛岡市では供物を乗せた数m程度の小舟に火をつけて流す「舟っこ流し」が行われます。
そして私は「精霊流し」という言葉を聞くと、何故か悲しい気持ちになります。悲しい夏の夜の風物詩です。
その風景を2枚の写真で示します。



この2枚の写真の出典は以下の通りです。
精霊流しの写真:http://blogs.yahoo.co.jp/yokohama_crows/GALLERY/show_image.html?id=50643264&no=2
精霊流し夜景:http://community.travel.yahoo.co.jp/mymemo/tass/blog/123614.html

このようなお盆の風習は欧米人にも意味が判ります。しみじみと静かに考えさせます。
欧米では死者はみな天国にいてイエスさまと神様の足元に幸せに暮らしていると信じられています。天上からこの世の家族の幸福を見守っているのです。しかし死者がこの世に降りてきて家族と交流することはありません。
それは最後の審判の時イエスさまがこの世に来て全ての人の審判をするのです。その時全ての死者が復活して生き返るのです。
欧米ではこのように信じられています。
しかし彼等も人間です。愛した人が死んだら、また再び会えるように願うのは自然なことです。日本のお盆の風習はその願えをかなえるかも知れません。ですから私が自慢したい日本の文化の一つです。
お盆の風習は無意味だというような野暮は言わないで下さい。それは一つの文化なのです。

さて人それぞれお盆にはいろいろな思い出をお持ちのことと思います。
お盆の時期は地方によって違います。先祖の霊の迎え方やお供え物も違います。盆踊りも違います。これこそ豊かなローカル文化として、夏の美しい風物詩になっているのです。
皆様のお盆にまつわる思い出をお聞かせ頂ければ嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

自然の景観を生かした宮ケ瀬湖畔の広大な散策公園

2016年05月23日 | 日記・エッセイ・コラム
東京近辺には規模壮大な公園が幾つかあります。昭和記念公園や水元公園や秋ヶ瀬公園は広い敷地に森や湖があり自然そのままの景観があります。そして昭和公園には霧が吹き出す林があったり、子供の遊戯具も散在しています。その上バーベキューを楽しむ施設やレストランもあります。
いろいろな施設があるのですが、公園が広大で大きな木々が茂っているにで、人工的な施設が目立ちません。
散策していると大自然の中を静かに歩いているような気分になります。
そのような広大な公園が神奈川県の丹沢山系の麓ににもあります。宮ケ瀬湖畔にある公園です。
宮ケ瀬湖の特徴は巨大なダム湖の少し上に広がっている「水の郷」というもう一つの湖があることです。この水の郷は広い回遊式の散策路があり、中心の湖ではカヌーを楽しめます。そしてこの湖の中心には噴水があります。
この「水の郷」こそ宮ケ瀬公園の特徴で、他のダム湖の公園には無いものです。
私共は宮ケ瀬湖に行くと必ずのように「水の郷」の湖の周囲を歩きます。やく2Kmくらいゆっくり歩きます。丹沢の山からはウグイスやカッコーの声がして来ます。晴れ上がった皐月の風が頬をなでています。
それでは一昨日散策しながら撮った写真をお送りいたします。

上の1番目の写真が宮ケ瀬湖と呼ばれるダム湖です。日本では最大級のダム湖で1971年(昭和46年)にダム計画が発表され、2000年に完成しました。

上の2番目の写真が「水の郷」というもう一つの湖の写真です。この湖は湖畔公園のためにわざわざ作った小さな湖で、周囲2Km位の回遊庭園になっています。
この写真の遠方に写っている吊り橋は、全長315mもありますが、これも散歩道の一部としてわざわざ作ったものです。この吊り橋の向こう側の下が宮ケ瀬湖になっています。この吊り橋の上から宮ケ瀬湖を見下ろすと絶景です。なおこの吊り橋の下に宮ケ瀬湖の遊覧船の発着場所があります。

上の3番目の写真はこの「水の郷」にある噴水で高さ30mまで水柱が上がっています。
夏になるとこの噴水の周りでカヌーを楽しみます。

上の4番目の写真は「水の郷」にある小川です。浅く作ってあるので、いつも子供が自由に水遊びをしています。回遊している散歩道の左右にはこのような小川があちこちに流れています。

上の5番目の写真は「水の郷」の周囲2Km位の回遊庭園を走っているロードトレインです。1昨日は歩いて一周した所に丁度停留所があったので初めて乗ってみました。このロードトレインでまた一周しました。トレインの上から見る景観はまた違うようです。のんびりと幼児に返ったような気分になります。
以上が宮ヶ瀬湖の「水の郷」のご紹介です。
ここは四季を通じたイベントも沢山あります。
春は桜祭りや、フリーマーケット。夏はカヌー体験、バーベキュー、花火大会。秋は紅葉を楽しめます。冬には宮ヶ瀬クリスマス、光のメルヘン、バレンタインウィークなどがあるそうです。
しかし私共は静かに散策したいので人の多いイベントは勘弁してもらっています。
静かな広い大自然の中の散策路を楽しみたい方は是非平日に宮ヶ瀬湖の「水の郷」へお越し下さい。湖畔には他にも3つ。4つの公園が散在しています。
詳しくは、https://www.miyagase.or.jp/ をご覧ください。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料==========
宮ヶ瀬ダム(みやがせダム)は神奈川県愛甲郡愛川町半原と相模原市緑区青山、更に愛甲郡清川村宮ヶ瀬の3市町村に跨る、一級水系 相模川水系中津川に建設されたダムである。湖名は宮ヶ瀬湖(みやがせこ)。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E3%83%B6%E7%80%AC%E3%83%80%E3%83%A0 より)

沿革:
日本で早期から河川総合開発事業が展開された相模川では1947年(昭和22年)に相模ダムが完成し、1970年(昭和45年)には城山ダムも完成した。だが、その後も相模川流域では人口の増加が進行し、上水道や工業用水道の需要は2ダム完成後も供給が追いつかない状態にあった。更に元来氾濫原であった地域への宅地化の進行は相模川の治水安全度を低くし、水害の際には大きな被害が予測されたが堤防の建設や川幅拡幅は用地の取得が困難であった。加えて東海道新幹線や東名高速道路といった日本の大動脈が開通するにおよび、万全の治水対策が求められるようになった。

神奈川県内の相模川水系では流域面積の大きい中津川は、合流点より下流に厚木市などの人口密集地帯があり、特に治水の重要性が指摘されていたことからダムによる洪水調節が計画された。当初は「中津川ダム」として計画されていた宮ヶ瀬ダムは、1969年(昭和44年)よりダム建設のための予備調査が開始され、2年後の1971年(昭和46年)より特定多目的ダム事業としてスタートした。堤高156.0mの重力式コンクリートダム、総貯水容量約2億トンという首都圏最大のダム計画は難航する補償交渉を経て、計画発表から29年後の2000年(平成12年)12月に完成した。関東地方では奈良俣ダム(楢俣川・158.0m)に次ぐ高さで浦山ダム(浦山川・156.0m)と並び、総貯水容量は奥多摩湖(小河内ダム)や奥利根湖(矢木沢ダム)に次ぐ関東屈指の大ダムである。

目的:
ダムの目的は中津川・相模川中下流部の洪水調節、沿岸農地への慣行水利権分の農業用水補給・中津川における河川生態系保全のための河川維持放流を目的とした不特定利水、横浜市・川崎市・相模原市等神奈川県全体の2/3の地域、県人口の90%への上水道供給、直下流に併設された神奈川県企業庁の愛川第一発電所による最大出力24,000kWの水力発電である。

また、ダム湖である宮ヶ瀬湖から相模川、道志川へと水路で接続されている(相模導水)。相模ダム(相模湖)・城山ダム(津久井湖)・道志ダム(奥相模湖)と連携した管理運営を図ることによって、貯めることができずそのままでは無効放流で無駄になっていた水を宮ケ瀬湖で貯水することにより水資源を確保することが目的である。

直下流には宮ヶ瀬ダムから放流した水を調整し、下流への水量を安定化させ急激な増水を防ぐ為の逆調整ダムとして宮ヶ瀬副ダムが建設されている。副ダムは別名石小屋ダムと呼ばれており、県立あいかわ公園の敷地に程近い場所にある。洪水調節の他、愛川第二発電所による水力発電(1,200kW)を行う。

補償:
総事業費は、完成当時にして約3,970億円であり、日本では最大級のダム事業である。1971年(昭和46年)にダム計画が正式に発表されたが、ダム建設によって300戸が水没することから当時より猛烈な反対運動が持ち上がった。これ以後補償交渉は長期化を余儀なくされたが、1977年(昭和52年)3月28日には水源地域対策特別措置法の第9条指定ダムとして指定され、補償費国庫補助の嵩上げ対象となった。

最終的には城山ダム建設時の補償内容と同様に代替地造成による補償内容で交渉は妥結した。移転先としてダム上流部の宮の平地区の他、厚木市宮の里や相模原市に代替造成地を建設。宮ヶ瀬小・中学校を始め公民館、消防施設(倉庫2か所・消防水利10か所)、JA出張所などの公共施設、県道13.5kmの整備等を行い住民・地域の生活再建を図った。なお、清川村・津久井町(当時)・愛川町の3町村で移転を余儀なくされた住民は1,136名である。 ダムの計画発表から完成までの歴史は以下の通りである。


1969年 9月 建設省、「宮ヶ瀬ダム建設計画」発表。予備調査を開始する。
1971年 4月 実施計画調査着手。「建設省関東地方建設局宮ヶ瀬ダム調査事務所」開設。
1974年 4月 建設事業着手。調査事務所を「建設省関東地方建設局宮ヶ瀬ダム工事事務所」と名称変更。
1976年 8月 用地測量のための「一筆調査」が開始される。
1977年 3月 水源地域対策特別措置法の「第9条等指定ダム」に指定される。
1978年 12月 「宮ヶ瀬ダム建設事業基本計画」、官報に告示される。
1981年 8月 清川村と愛川町の水没住民との補償交渉が妥結する。
1983年 1月 津久井町の水没住民との補償交渉が妥結する。
1984年 6月 ダムサイト建設地点の地権者との補償交渉が妥結し、ダム建設に伴う補償交渉が全て妥結する。
1986年 11月 神奈川県企業庁電気局による水力発電事業が計画に加えられ、基本計画変更。
1991年 10月 宮ヶ瀬ダム本体コンクリート打設開始。
1994年 11月 本体コンクリート打設完了。
1995年 1月 宮ヶ瀬副ダム(通称:石小屋ダム)コンクリート打設開始。
10月 宮ヶ瀬ダムの試験湛水が開始される。
1996年 4月 神奈川県道514号宮ヶ瀬愛川線の付け替え工事が完成し、全ての道路付け替えが完成する。
12月 宮ヶ瀬副ダムの試験湛水が開始される。
1997年 3月 宮ヶ瀬副ダムの試験湛水が終了する。
4月 神奈川県企業庁、愛川第一・第二発電所の営業運転を開始する
(水力発電目的のダム暫定運用開始)。
1998年 6月 宮ヶ瀬ダム湖(宮ヶ瀬湖)が満水位に達し、試験放流が行われる。
9月 第53回国民体育大会のカヌー競技会場として宮ヶ瀬湖が選ばれ、開催される。
11月 宮ヶ瀬ダムの試験湛水が終了する。
1999年 4月 城山ダムへ導水する「津久井導水路」の導水事業開始(上水道目的のダム暫定運用開始)。
2000年 12月 宮ヶ瀬ダム・宮ヶ瀬副ダムの工事が全て終了し、竣工する。
2001年 1月 省庁再編により、建設省が「国土交通省」と組織再編される(地方建設局は「地方整備局」と改称)。
3月 道志川の道志ダム(奥相模湖)との間で相互に導水する「道志導水路」の導水事業開始。
4月 宮ヶ瀬ダム・宮ヶ瀬副ダムの運用が開始され、管理業務へ移行される。
事務所名が「国土交通省関東地方整備局相模川水系広域ダム管理事務所」と改称される。

観光:
ダムは完成以後地域の観光拠点としても整備されている。首都圏から50km圏内の近距離にあることから、直下流にある神奈川県立あいかわ公園と共にピクニックなどが行える行楽地として、週末・祝日になると観光客が多く訪れる。国土交通省の相模川水系広域ダム管理事務所は宮ヶ瀬ダムを積極的に開放して、市民へ事業に対する理解と啓蒙を図っている。ダムではインクラインを利用したダム天端と直下部を結ぶケーブルカー(鉄道事業法に準拠する正式な鉄道ではない)を設置し、ダムと下流にある神奈川県立あいかわ公園とのアクセスを促している。また、毎週水曜日と第二日曜日には宮ヶ瀬ダムの観光放流が行われる。高さ100m付近にある常用洪水吐きの2門のゲートから豪快な放流が4分間、1日2回行われる(午前11時 - 11時4分、午後2時 - 2時4分)。この時は放流を見るために多くの行楽客がダムの真下へと訪れる。

宮ヶ瀬湖では夏の花火大会を始め、12月にはクリスマスツリーが湖畔に飾られ、夜にはイルミネーションで彩られる。湖畔の宮の平代替地には水源地域対策特別措置法の補助によって建設された「宮ヶ瀬水の郷」やビジターセンターがある他、早戸川の国際マス釣り場、中津川・布川沿岸のキャンプ場群、ダム下流のふれあい村など多くのレジャー施設が設けられている。2005年(平成17年)には財団法人ダム水源地環境整備センターが指定する「ダム湖百選」に、清川村などの推薦で選定されている。なお、ダム完成により清川村はダムによる固定資産税の発生によって財政が回復、地方交付税交付金の交付対象外自治体となっている。